それで前回のそのリンブルグ公国について自分なりに調べたことを他のサイトにまとめたんですが、今回それをこちらでもそのまま記載させてもらいますね!

(緑の部分が昔のリンブルグ公国の地域)
その昔リンブルグ公爵の所領はリエージュ州北部から、現在のベルギー・オランダの両リンブルフ州、さらに現在のドイツのノルトライン=ヴェストファーレン州の一部にまたがっていた広大な地域だったということで、そのため今でもリンブルグという名前は、ベルギーとオランダにそれぞれその名前の州があり、ドイツにもリンブルク・アン・デア・ラーンという名前の町があるのだが、そういうわけでこの地域がリンブルグ公国に関係があったということが想像できる。
また今でもリンブルグという名前は、
1.発祥の地 リンブルグ村(リエージュ州・州都リエージュ フランス語のワロン地域)
2.リンブルグ州(ベルギーの1つの州・州都はハッセルト フラマン語のフランドル地方)
3.リンブルグ州(オランダの1つの州・州都はマーストリヒト)
4.リンブルク・アン・デア・ラーン(ドイツのヘッセン州の町で面積は45,15 km2、人口35,000人の町、州都はヴィースバーデン)
と、ベルギー、オランダ、ドイツにそれぞれ4つの違う地域や町や村に名前が残っているのだ。
もともとリンブルグ公爵家のリンブルグ城は、1020年頃にフレデリック2世が古い王室の領地バーレンのヴェーザー渓谷(発祥の地の近くの川)にリンブルフ城を、中世の要塞城として建てたのが最初なのだという。
その後、1280年の最後の公爵と1283年の相続人の死後にリンブルクの継承戦が勃発し、ウォーリンゲンの戦いにおいて、その勝者であるブラバント公爵がリンブルグ公爵の称号を獲得、またブルゴ-ニュ(ブルグンド)公国、その後はドイツ神聖ロ-マ帝国領に属し、ゲルデルン公国、ユーリヒ公国、リエージュ司教領、ケルン大司教領によって分割統治されていた一帯でもあった。
また1549年ドイツ神聖ロ-マ皇帝にしてスペイン王のカール5世によって、ネーデルラント17州がハプスブルク家に統合され、ナポレオン時代にはフランス帝国に併合された後、またその直後のウィーン会議にて1815年にはネーデルラント連合王国領となる。
ところが1830年に今度はネーデルラント南部諸州がベルギーとして独立すると、リンブルグはベルギーの支配下に置かれるのだが、それからまた1839年にはリンブルグの東側半分がオランダ領、西側半分がベルギー領として分割されることになるという大変複雑な公国でもあった。
実はリンブルグ公国を代表する街でもあるマーストリヒトとリエージュはオランダ・ベルギーという違う国でありながら良く似た街並みで、なんとなく不思議に思っていたのだが今やっと私にもその理由がはっきりとわかった。
しかし何度も色々な国に支配された後、やっとオランダ・ベルギーに分割されて現在の状態になったものの、オランダ側のリンブルフは、1866年まで「リンブルク公国」の名でドイツ連邦に属していて、「公国」の名は、その後も1906年まで州の公式名称であったというのだから、今の私達が「リンブルグ公国」はどこか懐かしい響きの名前と思うのも無理はないのかもしれない。
100年前までこの公国は名前としては残っていたということなのだから、それほど大昔という話ではないということだ。
リンブルグ公爵家の血筋は1280年には途絶え、実際には色々な公爵や司教区、また色々な国に支配されていたため、その実態は簡単には説明できないのだろうし、また非常に複雑でわかりにくいものの、近郊の権力者達が手に入れたい魅力ある国だったということは間違いない。
リンブルフ公国は、ヒースや荒れ地の森林地帯(南東部のヘルトゲンヴァルト)の大部分から成っていたが、14世紀に繊維産業が、陶器は15世紀から栄え、公国をはるかに超えて認知されていた。
また同じ頃15世紀には、豊富な鉱物資源(鉄鉱石、鉛、ガルメイ)の普及が始まった。鉛とガルメイの特に豊富な鉱床は、前政権の終結後、プロイセンとオランダの両方から非常に求められ、前回の「中立モレスネット」の成り立ちとなる、非常に魅力的な場所でもあった。
またこの地域は美しい景観の街が多い。気候は北方地方と違って昔でも多少は温暖であり、冬もそれほど厳しくはなかったことだろうし、もともとロ-マ時代のベルギカの道(ローマからケルン方向に来て、現在のベルギー、オランダ辺りを抜けてイギリス・大西洋方向へ抜ける道)にもかぶっている辺りなので、ヨ-ロッパ人には馴染みの深い愛着を感じる地域のひとつだったのかもしれない。
(こちらはどの公国や司教区にどの年代に属していたかが書かれています)
以上、ということで今回はリンブルグ公国についてあれこれ書かせてもらいました!