プロフィ-ル

マルゴママ

Author:マルゴママ
ドイツ北西部の片田舎でかれこれもう16年生活しています。ドイツ人の夫と、3人息子、そして一人娘(?!)の猫マルゴと共に、ドイツの子供の生活、ドイツサッカ-をはじめ、テニスやブレイクダンス、またドイツの村での生活風景を気のむくまま綴っていきたいと思っています。
 

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東フランク王から神聖ロ-マ帝国皇帝へ

西フランク王国がカロリング家から
カペ-家へ移ったように、東フランク王国も
911年ルートヴィヒ4世の死により、カロリング家は断絶
その後はフランケン朝、ザクセン朝、ザーリアー朝、
ホーエンシュタウフェン朝などが王位、及びに皇帝位を継承していきます。

ということで今回は誰が、そしてどの王家が東フランク王国(ロ-マ王)の
皇帝位を継承していったのかを見ていきたいと思います。


東フランク王国王


カロリング朝

ルートヴィヒ2世(ルートヴィヒ敬虔王の息子)ドイツ人王
(在位:843年- 876年)

カールマン2世(ルートヴィヒ2世の長男)
(在位:876年- 880年)

ルートヴィヒ3世若年王(ルートヴィヒ2世の次男)
(在位:876年- 882年)

カ-ル3世肥満王(ルートヴィヒ2世の三男)
(在位:876年- 887年)
(上の3人は兄弟3人での共同統治)

アルヌルフ(カールマン2世の庶子でベンガ-リオ1世の甥)
(在位:887年- 899年)

ルートヴィヒ4世幼童王(アルヌルフとコンラ-ト家の子)
(在位:899年- 911年)

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(ルートヴィヒ4世幼童王)

父王アルヌルフはなんと幼童王6歳の時に死去、幼い彼は
東フランク王を継承し、900年には異母兄ロランギリア王が
亡くなり、ロタンギリア王も兼ねますが、マジャ-ル人の侵入などの、
苦労がたたったのかなんと17歳の若さで死去してしまいます。
これにより東フランクのカロリング家も断絶し、王位は彼の異母姉の子、
フランケン大公だったコンラ-ト1世が継承します。

そしてここまでは東フランク王の歴代国王でしたが
ここからの王様の在位は、神聖ロ-マ帝国皇帝での在位とします。
なぜならここからは東フランク王とはローマ王(ドイツ王)の意味で
そのドイツ王国とは、神聖ローマ帝国を構成する3王国(ドイツ王国、
ブルグント王国およびイタリア王国)の1つとして位置づけられ、
その王達が神聖ロ-マ帝国皇帝として戴冠するようになっていくからです。
しかしながら当時は「ドイツ」という意識も言葉もなく
「ドイツ」という国は後世に作られたものだそうですが。。。


フランケン朝(コンラ-ト家)

コンラ-ト1世((アルヌルフの孫)
(在位:911年- 918年)


嫡子がいなかった彼は、王国の分裂を防ぐために、
宿敵のザクセン公ハインリヒ1世を後継者に指名し、
918年に37歳で逝去します。


ザクセン朝(リウドルフィング朝/オットー朝)

ハインリヒ1世狩猟王(ザクセン朝ドイツ王国初代国王)
(在位:919年- 936年)


ワーグナ-の歌劇「ローエングリン」で国王として登場するのは
このハインリヒ1世です。第3幕でハインリヒ王による
「ドイツの国土のためにドイツの剣をとれ!」との演説は、
ナチス・ヒットラ-にも利用されることになります。
バイエルン王国の皇太子ルートヴィヒ2世がこのオペラに魅了され
白鳥城を建設したのは有名な話ですよね。
ロ-エングリン
(オペラ ロ-エングリン)

オットー1世(ハインリヒ1世の子・オットー大帝とも呼ばれる)
(在位:936年- 973年)

936年オットーはカール大帝に倣い、東フランク王国国王の
戴冠式をアーヘン大聖堂(エクス・ラ・シャペル)で挙行しますが、
正式にローマにおいて教皇から皇帝の冠を授かるのは962年でした。
また「神聖ローマ帝国」の国号が使われ出したのは
13世紀以後のことで、まだ後のことでありますが、世界史ではこの時を
もって神聖ローマ帝国の誕生としているそうです。

オットー2世(オット-1世の子)
(在位:973年- 983年)

オットー3世(オット-2世の子)
(在位:983年- 1002年)

ハインリヒ2世(ハインリヒ1世の曾孫)
(在位:1002年- 1024年)


1002年にオットー3世が急死して直系が断絶、1024年に
帝位を継いだ弟ハインリヒの孫のハインリヒ2世も
子の無いまま死去、ザクセン朝は断絶しました。
ハインリヒ2世の後を継いで皇帝に即位、ザーリアー朝を開いたコンラート2世は
コンラート赤毛公とロイトガルトの曾孫であります。


ザーリアー朝(フランケン朝とも呼ばれる)

コンラート2世
(在位:1027年- 1039年)


コンラートは1033年に相続によってブルグントの王位も手中に収めます。
このことによって、ドイツ(東フランク)・イタリア・ブルグントと
いう3国の王冠が一手に掌握されました。この3国の領域が、いわゆる
「神聖ローマ帝国」の支配領域を規定する雛型になったと言われています。

ハインリヒ3世黒王(コンラート2世の子)
(在位:1046年- 1056年)

戴冠前にみずから「ローマ王」を名乗った王様で、
これがのちに神聖ローマ皇帝位継承者がローマ王を
名のる習慣の端緒となったわけですね。

ハインリヒ4世(ハインリヒ3世の子)
(在位:1056年- 1106年)

教皇グレゴリウス7世と激しく対立して教皇を破門、
ところが逆に教皇から破門、王位の剥奪も宣言されたために、
教皇の赦しを願った有名な「カノッサの屈辱」事件の主人公が
このハインリヒ4世陛下でした。
(でもこの時、よく言われるような雪の中で裸足で食事もなしに
3日間立っていたという事実の記録はないのだそうですが)

なのでその間のドイツ王(東フランク王・ロ-マ王)は

ルドルフ(ラインフェルデン家・ハインリヒ4世の対立王)
(在位:1077年- 1080年)

ヘルマン(ザルム家・ハインリヒ4世の対立王)
(在位:1081年- 1088年)

コンラート(ハインリヒ4世の長男・父と共治王)
(在位:1074年- 1101年)


皇帝としての戴冠はされていないこの3人がいました。
そしてザーリア朝の最後の皇帝が

ハインリヒ5世(ハインリヒ4世の次男)
(在位:1111年- 1125年)

ですが、彼は父ハインリヒ4世に反逆したばかりではなく
ロ-マ教皇とも争い、最終的には1122年にヴォルムス協約が結ばれ
「聖職者叙任権は教会にあり、皇帝は世俗の権威のみを与える」
という取り決めが決められます。
ここで教会の権力は名実ともに決定的なものになりました。
生存中争い事ばかりのハインリヒ5世でしたが、最も大切な
世継ぎは残せることなしに、ザ-リア朝はなんと彼の代で断絶。
そこで次の皇帝に選出されたのが、


ザクセン朝(ズップリンブルク家)

ロタ-ル3世
(在位:1125年- 1137年)


でした。ハインリヒ4世との戦いで戦死したザクセン出身の貴族の
ゲープハルトの遺児で、相続と婚姻で領土を広げていきます。
ザクセン朝ともいわれているのですが、、リウドルフィング家(オット-大帝の)
のザクセン朝と直接の関係はないのだそうです。
同じ「ザクセン」てでもまぎらわしいですよね。

そして嗣子のないロタ-ル3世は後継者に婿の
バイエルン公ハインリヒ10世を願っていましたが
色々ともめた結果出てきたのが有名な


ホーエンシュタウフェン朝

フリードリヒ1世赤髭王(シュヴァーベン大公と皇帝ハインリヒ4世の長女の次男)
(在位:1122年- 1190年)


歴代神聖ローマ皇帝の中においては有能で、後世に英雄と呼ばれ、
また、赤みを帯びたブロンドの髭を持っていたことから、
赤髭王(バルバロッサ、Barbarossa)と呼ばれていました。
50歳くらいで人生が終わるのが普通の時代で
当時68年にわたる治世はとても長いですよね。
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(フリードリヒ1世赤髭王)

彼のライバルはこれまた有名なヴェルフ家のバイエルン公兼ザクセン公
ハインリヒ獅子公でしたが、1180年に反逆罪で帝国追放に処し、
領土を奪い、この強力な宿敵を失墜させることに成功します。


ハインリヒ6世(フリードリヒ1世と2番目の妃の子)
(在位:1191年- 1197年)

フリードリヒ1世赤髭王が長生きしたにもかかわらず、
なんということか皮肉なことに息子のハインリヒ6世は
マラリアで32歳の若さで病死。
幼少の息子に皇帝位を継がせる願いはかなわず
父王の最大のライバルだったハインリヒ獅子公と
イングランド王ヘンリー2世の娘マティルダの次男が次の皇帝に選出

ヴェルフェン朝
オット-4世(ハインリヒ獅子公とヘンリ-2世の娘の子)
(在位:1209年- 1215年)

彼もまた跡継ぎのないまま43歳で生涯を終え
帝位はまたもやホーエンシュタウフェン家へ


ホーエンシュタウフェン朝

フリードリヒ2世(ハインリヒ6世とシチリア王女の子)
(在位:1220年- 1250年)

1224年にはナポリ大学も建設した彼は「王座上の最初の近代人」と言われ
中世で最も進歩的な君主と評価されていて、ルネサンス時代を先取りした
とも思える宮廷生活を送っていた皇帝だったそうですが、
彼の死後わずか4年後には正統の血筋は絶え、その後「大空位時代」に
突入します。

諸侯や教皇は自分たちの利害もからみ、皇帝選出でもめにもめ、
1273年、当時としては弱小勢力に過ぎなかったスイス出身の
ハプスブルク家のルドルフ1世(在位:1273年- 1291年)
を神聖ローマ帝国の君主として擁立します。

これをもって大空位時代は終結しましたが、ルドルフ1世は
正式にはドイツ王であり、ローマで皇帝としての戴冠を受けることは
ありませんでした。

ナッサウ家のアドルフ1世(在位:1292年- 1298年)、
ハプスブルク家のアルブレヒト1世(在位:1298年- 1308年)
も帝位に就きますが、ドイツ王としての戴冠はあっても
神聖ローマ皇帝としての戴冠はないままでした。
時代が混乱から落ち着くのは次の皇帝からです。
アルブレヒト1世の暗殺により次の皇帝に選ばれたのが、


ルクセンブルグ朝

ハインリヒ7世(ルクセンブルク伯ハインリヒ6世の子)
(在位:1312年- 1313年)

フランス語を母語としながらドイツ語も堪能で、
でもフランス名では彼はアンリです。
イタリア遠征中に客死(暗殺された疑い)、
皇帝カール4世の祖父であり、彼の弟のト-リア大司教が
後にカ-ル4世の皇帝即位に貢献したそうです。


ヴィッテルスバッハ朝

ル-ドヴィヒ4世
(在位:1314年- 1347年)



ライン宮中伯、ケルン大司教ハインリヒ、ケルン大司教、ケルンテン公が
ハプスブルグ家のフリードリヒ3世(美王)派、、一方ルートヴィヒを
支持したのはマインツ大司教、トリーア大司教、ボヘミア王兼ルクセンブルグ公、
ブランデンブルク辺境伯の4人で、互いに異議を唱えて戦争になりまたもや混乱を極めます。
周りの選定諸侯は本当にうるさかったんですね。。。

そんなわけでフリードリヒ3世が1330年に
なくなるまで2人での共同統治でした。彼の死後
やっと単独統治となり、戴冠もロ-マで執り行われます。

そのあと政策上から教皇の反感を買い、
そんな中で彼の対抗王としてカ-ル4世が担ぎ出され
無念のなか1346年に65歳で死去します。
お気の毒でした。

そしてついに次に
プラハのカ-ル4世登場となるわけです。

あまりにたくさんの皇帝で、頭の中を色々な
名前がぐるぐるかけまわってしまいませんか?
少なくとも今の私の心境は、ハインリヒもオット-も
フリ-ドリッヒもコンラ-トも、ドイツ系名前は今はあまり
聞きたくない気分なくらいです。。。。
中でもザクセン朝のリウドルフィング家とかズップリンブルク家とか
覚えにくい名前をつけないで、ただのザクセン朝にして欲しいです。

…と文句はこのくらいにして、
長くなったのでこの続きは次回に持ち越します。
次回は地図上からフランク王国から現代につながる
ドイツ(あるいはフランスやイタリア)を見ていきたいと思います。


なんだか私の趣味で、マニアックな方向になってしまっているこの中
ー しかも面白みはなくつまらない皇帝リストを、最後まで読んでくださった方には
ほんとうに感謝、感激です。。。

でも次回もぜひ読んでくださいね☆
 

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