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マルゴママ

Author:マルゴママ
ドイツ北西部の片田舎でかれこれもう20年生活しています。
ドイツ人の夫と3人息子、そして一人娘(?!)の猫クレオとそして雄猫シザ-リオと共に、ドイツの子供の学校と大学生活、ドイツサッカ-もたまに、空手や他のスポーツ、またドイツの村での生活風景を気のむくまま綴っていきたいと思っています。
 


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神聖ロ-マ帝国皇帝カ-ル4世にしてボヘミア王カレル1世

カ-ル大帝、カール5世と続いたので、今回はもう一人の
カ-ル皇帝、ボヘミア王カレル1世にして、
1355年には神聖ローマ皇帝として即位した
カ-ル4世についてです。
200px-Die_deutschen_Kaiser_Karl_IV.jpg
まずカール4世と言えば、神聖ローマ帝国内に
初めて大学を創立したことで有名ですね。

12世紀にはイタリアにはヨーロッパ最古のボローニャ大学が、
フランスにはパリ大学、イギリスにはオックスフォ-ド、
ケンブリッジまでも創立され、西欧各地にいくつか大学が
できはじめていたというのに、ライン川の東、神聖ロ-マ
帝国の地域にはまだ一つもなく、ドイツ人の学生は遠路パリや
ボロ-ニャまでいく必要があったそうで、プラハを「東のパリ」
たらしめたいというパリ育ちのカ-ル皇帝の構想のもと、
1348年に設立されたのがプラハ・カレル大学でした。
(設立者が神聖ローマ皇帝であるため「ドイツ語圏最古の
大学」と言われています。)

カ-ル4世は、ルクセンブルグ家出身の皇帝でした。
ルクセンブルク家はドイツ神聖ローマ帝国辺境の
一諸侯であるルクセンブルクの伯爵家であり、
ドイツ諸侯であると同時にフランス王の封臣でもあり、
地理的なことからもフランス語を母語とした一族でもありました。
現在のルクセンブルグにある、ルクセンブルク城
を本拠地に定めたアルデンヌ伯ジークフリート の子孫が、
11世紀にルクセンブルク伯の位を神聖ローマ皇帝から与えられ、
1308年のハインリヒ7世のドイツ王選出から1437年の
ジギスムントの死まで、ルクセンブルク家からは
4人のドイツ王および神聖ローマ皇帝を輩出することとなります。

そのハインリッヒ7世の息子ヨハンがボヘミアと
ポーランドの王ヴァーツラフ3世の妹エリシュカの
夫に迎えられ、ヨハンは1310年にボヘミア王ヤンと
して即位、その2人の間に生まれたのが、このカール4世
(幼いころの名はヴァーツラフ)だったのです。
Karte_Boehmens_Karl_IV.jpg
(肌色がカール4世の時代のルクセンブルグ家の領地)

ルクセンブルク家とプシェミスル家の血を引く
チェコ人として生まれたカールでしたが、政治に
かかわる父と母の確執のため、7歳から14歳までの
間はパリの宮廷に送られて、カペー朝最後の王となる
フランス王シャルル4世のもと教育されます。
王妃マリー・ド・リュクサンブールが父ヨハンの
妹だった縁とのことで、後にこの代父であるシャルル4世
の名をとってヴァーツラフからシャルル(ドイツ語で
カール、チェコ語でカレル)と改名したのだそうです。
パリの宮廷では後の教皇クレメンス6世(当時は
フランスの貴族ピエール・ロジェという名)が教師で
非常に高いゆきとどいた教育を受けさせてもらった上、
パリ大学にて学問を修めた彼は、当時の君主の中でも
屈指の教養ある君主として知られていたそうです。
当時の共用語であったラテン語にて自伝を書き、
チェコ語、フランス語、ドイツ語、イタリア語を自由に
あやつる複数語を駆使する教養人であり、神学と法学には
生涯にわたって興味を持ち続け、該博な古典の知識を有していたカール4世では
ありましたが、生活はいたって質素だったとか。

また彼は歴代の皇帝とは違ってイタリア獲得に情熱を注ぐ
ことよりも、むしろボヘミア王国の地位向上と皇帝の
地位確立に生涯をささげました。

彼の有名な業績のひとつである「金印勅書」により、
ボヘミア王は神聖ローマ皇帝を選出する7人の選帝侯の
一人という地位を法的に獲得することになります。
(7人の選帝侯ーマインツ大司教、ケルン大司教、トリーア大司教、
ライン宮中伯、ボヘミア王、ザクセン公、ブランデンブルク辺境伯)

実は中世を通じて国王選挙には、しばしば教皇や
のちには外部の王権が介入することがあったのですが、
この金印勅書を発して、国王選挙に参与する選帝侯の
地位を固定し、その世襲を明確化した上で、選挙によって
選ばれた国王がただちに皇帝としての権力を得ると
定めることで、皇帝権の自律性を高めたのです。
選挙結果は教皇の承認を必要としないという、当時の
ヨ-ロッパでは非常に大きな意味を持った勅書でした。
(大学創立許可も当時は教会の特権だったので、
プラハ大学に皇帝自ら大学を設立したのこともまた、
皇帝の権威を教皇から引き離した政策のひとつでした。)

「金印勅書」は、最初の「全ドイツ的憲法」とも言われていて
神聖ローマ皇帝の選挙規定であると同時に帝国議会(諸侯会議)
の規則であり、さらに選帝侯の領邦(ラント)主権を認めたもので
あったので、以後のドイツの分権国家としての枠組みが作られる
ことになります。

他には「ハンザ同盟」「シュヴァーベン都市同盟」という
2つの都市同盟承認をしたことにより、ドイツ都市の経済向上を
促進させ(ドイツ諸侯からは反発を受けますが)、
自分はチェコ人という意識が強かった彼は、後に
「ボヘミアの父」とも呼ばれるほど、彼の父ヤンが当時
辺境の地と嫌ったボヘミア王国の整備に、心を尽くします。

自負の念も強かった彼は、あちこちに自らの名を冠したお城
を作り(カレルシュテイン城など)、他には世界的な温泉地として
カールスバート、またプラハの町を一望できる観光名所の
カレル橋も有名です。
karle.jpg
(ヴルタヴァ川に架かる美しいプラハのカレル橋)

また1355年にミラノでイタリア王、56年にローマで
皇帝としての戴冠式を挙げ、65年にはアルルでブルグンド王
に戴冠して、「ドイツ・イタリア・ブルグンド三国の国王戴冠と
神聖ローマ皇帝としての戴冠をすべて果たした最後の皇帝」でも
あったという彼はまた"文人皇帝"、"ベーメン(ボヘミア)の父"と称され
カール4世の治世において、首都プラハは中・東欧通商網の中核を
なして文化的にも繁栄し、「黄金のプラハ」と称されるほどであったそうです。

ルクセンルグ家の生涯のライバルだった、ヴィッテルスバッハ家と
ハプスブルク家でしたが、彼の死とともにルクセンブルグ家も彼の子供の代で衰退し、
後にボヘミア王国も神聖ローマ皇帝位もルクセンブルク家の手から離れてしまうことに
なります。そしてそのいずれも婚姻関係からカール4世がライバルとみなした
ハプスブルク家の手に収まり、カール4世の行動は1438年よりはじまる
「ハプスブルク帝国」(ハプスブルク家による帝位の世襲化)を準備することと
なってしまうという皮肉な結末になったのは、もし彼が存命中であれば
本当にさぞや無念だったことでしょうね。。。

4回結婚して、62歳の生涯でした。
300px-Karl_Fourth_Bohemia_Anna_Schweidnitz.jpg
(3人目の王妃アンナ・シフィドニツカとカール4世)

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