プロフィ-ル

マルゴママ

Author:マルゴママ
ドイツ北西部の片田舎でかれこれもう16年生活しています。ドイツ人の夫と、3人息子、そして一人娘(?!)の猫マルゴと共に、ドイツの子供の生活、ドイツサッカ-をはじめ、テニスやブレイクダンス、またドイツの村での生活風景を気のむくまま綴っていきたいと思っています。
 

灯篭が静かに流れていくブログパーツ
ランンキングに参加中です。
ぽちっと!クリック嬉しいです。 ブログランキング・にほんブログ村へ
日本ブログ村ランキング
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索

カール大帝 ― シャルルマ-ニュ ―

200px-Dürer_karl_der_grosse

西ヨ-ロッパ史最大のフランク王国を統一した、西洋史上最も重要な人物であり、
ヨーロッパの父とも呼ばれているカール大帝が、フランス語ではシャルルマーニュ
(Charlemagne)、ドイツ語ではカール・デア・グローセ(ドイツ語Karl der Große)であり、
また英語ではフランス語綴りを英語読みでシャーレメイン、または英訳してチャールズ・
ザ・グレート(Charles the Great)、そしてイタリア語でカルロ・マーニョ(Carlo Magno)、
ラテン語ではカロルス・マグヌス(Carolus Magnus)と各国言語でそれぞれ呼ばれているのは、
このフランク王国がフランス、ドイツ、イタリアなど、現在の欧州の心臓部を形作る国々の礎と
なった国々を含む西ヨ-ロッパを最初に統一した王国だったからです。


フランク王国(ドイツ語 Fränkisches Reich、フランス語 Royaumes francs、英語Frankish Empire、
イタリア語Regno franco)最初の王朝メロビィング家の実力者であったエリスタル伯ピピン
(カール大帝の曽祖父で通称 中ピピン―ちなみに中ピピンの祖父は大ピピンと呼ばれて
います)の彼の庶子カ-ル・マルテルが頭角をあらわし、720年に全フランク王国の宮宰と
なり、史上有名なトゥ-ル・ポアティエの戦いでイスラム教徒を撃退します。

政治手腕に長けていた息子ピピン3世(小ピピン)が、当時西ローマ帝国が滅びた後、後ろ盾
を失い苦境に立たされていたローマ教会の教皇ザカリアスと手を結び、751年にメロビィング朝
からフランク王国の国王の座を奪うことに成功し、ここにカロリング朝が誕生します。(この王朝
の名前はカール大帝の名をとってあとにカロリング朝とよばれことになったようです。)

786年にこの父ピピンが亡くなった時、カ-ルは26歳でしたが、弟カ-ルマンと共に王国を
分割統治することになります。
カ-ルは水泳や狩猟をよくし、たぐいまれな馬の乗り手であったそうで、子供のころから
厳しい生活を送って身体の鍛錬にはげみ、父王ピピンの実践にも参加して、父に対しては
深い敬意を払い、母に対してはひたすら素直な少年だったそうです。

というのも母ベルトは通称「大足のベルト」と呼ばれていますが、非常に才媛でいいお母さん
だったようで、父からは「王者の道を」、母からは「宮中のこまごましたことを」学んだ、と
言い伝えられているそうです。
分割した領土(カールは王国の主要部分)の問題で弟カ-ルマンとの対立も母ベルトが
間に入って調整するなどしたようです。

カ-ルは生涯5人の妻を持ち、庶子にいたっては20人前後だそうですが、
フランク王国長年の敵であったランゴバルト王国(ゲルマン系のランゴバルド族に
よる王国で現在のイタリアにあたる地域)の王女とカールとの政略結婚を画策したのも
母ベルトだったそうですが、母の望んだ平和的解決にはならず、
最終的にはこの王国もカールに滅ばされ、征服されることとなります。
ランゴバルト
(薄いブル-がロンバルド王国《ランゴバルドのイタリア語》で現在のイタリアのほぼ領域)

弟カールマンが771年に早世し、それ以降の43年間、カールは70歳すぎで死去する
まで単独で王国を統治する間、カールの生涯の大半は征服の旅で占められていて、
46年間の治世のあいだに53回もの軍事遠征をおこなっていたので、
首都をパリからア-ヘンに変えたものの、キエルジ-からメッス、フランクスルト、ランス、
バ-デンボルンと居所をかえたそうです。
大帝カール本人だけではなく、宮廷そのものが、1箇所に留まらずに常に国内を
移動していたのは、絶えず領内を移動して、伯との接触を確保する必要があったからであり
また、道路の整備も不充分で、各地から食糧などの生活物資を宮廷まで運ぶ輸送手段が
なかったためでもあったということで、そんな逸話からも当時の人々の生活に思いを
はせることができます。

ランゴバルト王国を皮切りに、長期に渡った誇り高きザクセン人の英雄ヴィドキントとの
戦い(772年から802年)の他に、スペインのイスラム教徒、バスク人(フランスの
「ローランの歌」で有名なロンスヴァ-の戦い。カール大帝の甥といわれる、
ローランが主人公。でもスペイン側からは「ベルナルド・デル・カルピオの歌」と
スペイン側を英雄にした物語があります)、バイエルン公国、アヴァ-ル人、
ノルマン人等を撃退し、800年にはついに教皇レオ3世より、クリスマス当日、
ローマのサン・ピエトロ寺院にて、西ローマの皇帝カール大帝が誕生します。
しかしながら、この儀式の際、彼自身は不満だったそうです。

というのは儀式がロ-マの古式に則する方法で執り行われなかったということ
(民衆の歓声をあげるのと加冠される順番が逆だった)なのですが、当時の文明の
中心はコンスタンチノ-ブルを首都とする東ロ-マ帝国であり、誰の目にも西ヨーロッパは
片田舎の王国に過ぎなかったのです。(今の感覚で考えればびっくりですよね。)

そんなことを儀式で証明させられたようで、誇り高いカ-ル大帝はさぞや腹立だしく
思ったことでしょうが、4世紀から6世紀にかけた、ゲルマン民族大移動のせいで、
西ヨーロッパはほぼ滅亡、東ロ-マ帝国だけが法制上唯一、ローマ帝国の文明
スタイルを引き継いでいた状態だったので、西ヨ-ロッパが格下に見られるのは、
当時の世相ではどうしても仕方のないことでした。
東欧と西欧の立場、繁栄ぶりが逆転するまでは、12世紀までまたなければなりません。

人生の大半を遠征に使い、戦いに明け暮れ、カール大帝の領土はイベリア半島とイタリア半島
南部を除く西ヨーロッパ大陸部のほぼ全域(今日のドイツ・フランス・イタリア・スイス・オランダ・
ベルギー・ルクセンブルクに相当)に及び、この地域を統一支配した空前絶後の大国家を
支配したカ-ルでしたが、生活はつつましく、飲酒を好まなかったため、彼の宮廷では宴会も
ほとんどひらかれなかったそうです。
350px-Empire_carolingien_768-811.jpg
カール時代のフランク王国(青がカール即位時のフランク王国、赤橙がカールの
獲得領、黄橙がカールの勢力範囲、濃赤はローマ教皇領)

また当時の国際語だったラテン語は話しましたが読む書きは苦手で、"KAROLUS"の
7文字を組み合わせたものが彼の署名でしたが、彼自身では中央の菱形だけしか
書いていなかったとか。
200px-Autograf,_Karl_den_store,_Nordisk_familjebok
(有名な彼の署名)

ラテン語とギリシャ語は勉強のかいあって話すことはできるようになったそうですが、
では彼の母国語はといえば、古フランク語というものだったそうです。
フランク人はもともと現在のオランダやフランドルのあたりに住んでいた
ゲルマン民族で、南に進出してフランク王国を建てたそうで、カール大帝は
現在のベルギ-のリエ-ジュ近郊で生まれたといわれています。
この古フランク語というのは、古いドイツ語のようなものと考えるとわかりやすい
かもしれません。古フランク語は後に英語やフランス語はじめ、なんとラテン語に
まで大きい影響を与えたそうです。当時のフランク王国はいかんせんイベリア半島と
イタリア半島南部を除く西ヨーロッパ大陸部のほぼ全域を統一支配した大国家だった
ことを考えればその影響力の大きさは相当なものだったことでしょう。

以上、今回は憧れのカール大帝についてでした。

COMMENT

EDIT COMMENT

非公開コメント

FC2カウンター
バルセロナ
全記事表示リンク
最新トラックバック