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マルゴママ

Author:マルゴママ
ドイツ北西部の片田舎でかれこれもう20年生活しています。
ドイツ人の夫と3人息子、そして一人娘(?!)の猫クレオとそして雄猫シザ-リオと共に、ドイツの子供の学校と大学生活、ドイツサッカ-もたまに、空手や他のスポーツ、またドイツの村での生活風景を気のむくまま綴っていきたいと思っています。
 


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ケルン大聖堂-三人の博士 巡礼の日

DSC_0009.jpg
ケルン中央駅を降りるとそびえ立つ大きさのケルン大聖堂にて、この金曜日から日曜日までは゛三人の博士゛の特別な巡礼の日でした。
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イエズス様がお生まれになった際、東方から駆けつけたと言われている゛三人の博士゛(ドイツ語では三人の王様 Drei König とうい名前ですが)の遺骨はなんとケルン大聖堂に祀られています。
もともとミラノの大聖堂にあったものを、神聖ロ-マ皇帝だった赤毛のババロッサという異名を持つフリ-ドリッヒ1世が奪ってきたの
が1162年、それ以来、この゛三人の博士゛の聖遺骨はケルン巡礼の大目玉となったわけです。
DSC_0018 (1)
この数日の巡礼の間は、なんということかこの棺の下を通ることができるという、普段では考えられない有り難い経験を体験できるということで、私も行ってきました。
だって、これをすると奇跡が起こると言われているんですよ、絶対行きたいではないですか!
それに、運がよければ棺の中に納められている゛三人の博士゛のお骨を見る事が出来る時もあるとのこと。
下をくぐっただけで奇跡が起こるなら、聖遺骨を拝見できたら、どんな良い事が起こるかもしれません!!

巡礼のコ-スである、「旅の守護神クリストファ-」「ミラノのマリア像」「ゲロの十字架」「装飾マリア像」の前でも一応敬虔な気持ちで十字を切り、゛三人の博士゛の聖なる棺の下は神妙な面持ちで歩ませていただきました。
DSC_0016.jpg
棺にしても、こんな近くで見られることは滅多にないくらいですから、本当はそれだけでも昔の人には奇跡的なことだったでしょうね。
DSC_0012.jpg
またこんな日のせいなのか、とても素敵な中世的なコスチュ-ムの女性達がいて、あまりに素敵なので聞いてみるとスペインからの女学生グル-プとのことで、この中世的な衣装は大学のユニフォ-ムということでびっくりしました。
伝統を重んじる、そしてとても敬虔なさすがスペイン! と感心してしまいました。

奇跡が起きることを願いつつ、もしなにか私に良い事が起こったら、またこちらに書かせていただきますね

長男の幼なじみ君達

昨日もまた15時からの長男のホームでの試合を見に行きました。
長男のチ-ムは下の方の8部リ-グ(ドイツは全部で11部)なんですが、なんということかこのシ-ズン4試合連続勝ち点を上げていて、1位。
このまま行けば7部昇格も夢ではないんじゃないか、というような雰囲気がチ-ムにも漂ってきているような最近らしいのですが、昨日は1対1から2対2になってからが長く、後半残り20分で3対2、最後4対2にしてなんとか逃げ切りました。
勝ち点15点になり、首位の座をキ-プできた昨日で、接線だったということもあり、久しぶりに手に汗にぎる感覚を味わいました。

うちの長男の試合にはどういうわけか昔のチ-ムメイトや近所のお嬢さんも毎週のように見に来てくれているんですが、昨日は久しぶりになつかしい顔を見つけました。
幼馴染の3人です。
この3人と長男は、幼稚園から小学校、ギムナジウムまでずっと同じクラス、9歳のコミニオンというカトリック信者の大切な儀式も一緒にし、13歳くらいまで同じサッカ-チ-ムで過ごしていました。
みんな家も近く、特にR君は2軒隣だったので、私は彼に関しては乳母車にのせられていた頃から知っていますが、他の子もみんなのことも幼稚園時代から知っています。

この3人と長男は4人グル-プで長年何をするのも一緒で、サッカ-以外にもテニスも6年ほど一緒にしていたともありますし、うちの長男の今までの21年間の人生の中で間違いなく兄弟よりも長い時間を一緒に過ごした彼らは長男にとって友達以上兄弟くらい、という存在であることは間違いありません。

そのうちのL君とはなんと大学の学科まで同じ、その中でくじ引きで決めた5人グル-プでも一緒(300人中)、ただ優秀な彼は3年で学士課程を終わり、うちの長男はあと1年学士課程を続けなければならず、あとのR君、A君もそれぞれまた違う道で頑張っています。

試合の前の日にこの4人で近所にバスケットボ-ルをしに行っていたのは知ってましたが、その時
「明日は何する?」
「自分は試合」
「俺、見にいく、自分の兄ちゃんと」
「あ、じゃ、俺らも」
というような会話があったのだと思いますが、A君以外の2人は随分前にサッカ-もやめてしまっていたので、サッカ-を見るというのも久しぶりだったことでしょう。

他にもこのA君のチ-ムは夏まで長男がいたチ-ムで、現在うちの次男がそこでサッカ-していますが、その次男とそれこそ幼馴染の友達もいて、その子達も長男のチ-ムの試合をよく見に来ているんですが、自分の兄が出ているというのに次男は長男の試合は見に来たこともないです、全く、自分が一番次男なんです。

sony 201710 011(1) (1)
それでこの写真は6年前、テニスの帰りに4人組とうちの次男、三男2人とアイス屋さんでアイスを皆で食べた時の写真で、実は私はこれは5年毎に同じ写真を撮る予定だったんですが、長男が
「そんなどうでも良いことのために皆をアイス屋に呼べない」というので、結局昨年も今年も機会がないまま、時だけが経ってしま っています。

ですがせめてあの頃、まだみんなが少年だった頃ににこんな写真を撮ることができただけでも本当にラッキ-でした

私の方は諦めず、またこの6人で写真を撮ることが出来る日を虎視眈々と狙うことにします



リンブルグ公国について

それで前回のそのリンブルグ公国について自分なりに調べたことを他のサイトにまとめたんですが、今回それをこちらでもそのまま記載させてもらいますね!

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(緑の部分が昔のリンブルグ公国の地域)

その昔リンブルグ公爵の所領はリエージュ州北部から、現在のベルギー・オランダの両リンブルフ州、さらに現在のドイツのノルトライン=ヴェストファーレン州の一部にまたがっていた広大な地域だったということで、そのため今でもリンブルグという名前は、ベルギーとオランダにそれぞれその名前の州があり、ドイツにもリンブルク・アン・デア・ラーンという名前の町があるのだが、そういうわけでこの地域がリンブルグ公国に関係があったということが想像できる。

また今でもリンブルグという名前は、

1.発祥の地 リンブルグ村(リエージュ州・州都リエージュ フランス語のワロン地域)

2.リンブルグ州(ベルギーの1つの州・州都はハッセルト フラマン語のフランドル地方)

3.リンブルグ州(オランダの1つの州・州都はマーストリヒト)

4.リンブルク・アン・デア・ラーン(ドイツのヘッセン州の町で面積は45,15 km2、人口35,000人の町、州都はヴィースバーデン)

と、ベルギー、オランダ、ドイツにそれぞれ4つの違う地域や町や村に名前が残っているのだ。

もともとリンブルグ公爵家のリンブルグ城は、1020年頃にフレデリック2世が古い王室の領地バーレンのヴェーザー渓谷(発祥の地の近くの川)にリンブルフ城を、中世の要塞城として建てたのが最初なのだという。

その後、1280年の最後の公爵と1283年の相続人の死後にリンブルクの継承戦が勃発し、ウォーリンゲンの戦いにおいて、その勝者であるブラバント公爵がリンブルグ公爵の称号を獲得、またブルゴ-ニュ(ブルグンド)公国、その後はドイツ神聖ロ-マ帝国領に属し、ゲルデルン公国、ユーリヒ公国、リエージュ司教領、ケルン大司教領によって分割統治されていた一帯でもあった。


また1549年ドイツ神聖ロ-マ皇帝にしてスペイン王のカール5世によって、ネーデルラント17州がハプスブルク家に統合され、ナポレオン時代にはフランス帝国に併合された後、またその直後のウィーン会議にて1815年にはネーデルラント連合王国領となる。

ところが1830年に今度はネーデルラント南部諸州がベルギーとして独立すると、リンブルグはベルギーの支配下に置かれるのだが、それからまた1839年にはリンブルグの東側半分がオランダ領、西側半分がベルギー領として分割されることになるという大変複雑な公国でもあった。

実はリンブルグ公国を代表する街でもあるマーストリヒトとリエージュはオランダ・ベルギーという違う国でありながら良く似た街並みで、なんとなく不思議に思っていたのだが今やっと私にもその理由がはっきりとわかった。

しかし何度も色々な国に支配された後、やっとオランダ・ベルギーに分割されて現在の状態になったものの、オランダ側のリンブルフは、1866年まで「リンブルク公国」の名でドイツ連邦に属していて、「公国」の名は、その後も1906年まで州の公式名称であったというのだから、今の私達が「リンブルグ公国」はどこか懐かしい響きの名前と思うのも無理はないのかもしれない。

100年前までこの公国は名前としては残っていたということなのだから、それほど大昔という話ではないということだ。

リンブルグ公爵家の血筋は1280年には途絶え、実際には色々な公爵や司教区、また色々な国に支配されていたため、その実態は簡単には説明できないのだろうし、また非常に複雑でわかりにくいものの、近郊の権力者達が手に入れたい魅力ある国だったということは間違いない。

リンブルフ公国は、ヒースや荒れ地の森林地帯(南東部のヘルトゲンヴァルト)の大部分から成っていたが、14世紀に繊維産業が、陶器は15世紀から栄え、公国をはるかに超えて認知されていた。

また同じ頃15世紀には、豊富な鉱物資源(鉄鉱石、鉛、ガルメイ)の普及が始まった。鉛とガルメイの特に豊富な鉱床は、前政権の終結後、プロイセンとオランダの両方から非常に求められ、前回の「中立モレスネット」の成り立ちとなる、非常に魅力的な場所でもあった。

またこの地域は美しい景観の街が多い。気候は北方地方と違って昔でも多少は温暖であり、冬もそれほど厳しくはなかったことだろうし、もともとロ-マ時代のベルギカの道(ローマからケルン方向に来て、現在のベルギー、オランダ辺りを抜けてイギリス・大西洋方向へ抜ける道)にもかぶっている辺りなので、ヨ-ロッパ人には馴染みの深い愛着を感じる地域のひとつだったのかもしれない。


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(こちらはどの公国や司教区にどの年代に属していたかが書かれています)

以上、ということで今回はリンブルグ公国についてあれこれ書かせてもらいました!

リンブルグ公国の由来になった町- ランブ-ル

最近ベルギーのドイツとの国境沿いまで行くことが多く、週末はベルギーのリエージュ州のランブ-ル(仏語:Limbourg)という小さな町へ少し足を延ばしてみました。
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途中こんな平原の中にある素敵な豪邸を眺めたり、途中乗馬で道を走る人とすれ違ったりしながら車で丘の上まで登っていくと
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こんな教会がありました。
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なんだかすごく古い教会のようです。
(サン・ジョルジュ教会)
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この町の歴史の展示会までしていて、中世的なドレス姿の服装の女性達が何人もいました。
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1632年のリンブルグの町の模型。

現在この町は24,63 km²、人口6000人程の小さな町ですが、ここはもともとこの名前がリンブルグ公国の由来になったとのことでした。
リンブルグ州という、この名前のついた州が現在もベルギー・オランダそれぞれに1つずつあり、ドイツにもリンブルク・アン・デア・ラーンという名前の町がありますので、よく聞いていないとどこのリンブルグのことかわからなくなってしまいそうです。

リンブルグ公国はかの昔はリエージュ州北部から現在のベルギー・オランダの両リンブルフ州、さらにドイツのノルトライン=ヴェストファーレン州の一部までまたがった広大な地域だったということなので、その名残が地名となって今でも残っているということなんでしょうか。
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最後は教会の近くにこんなカフェを見つけたので、カカオを飲んで帰路につきました。
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カフェの中までなんとなく牧歌的な雰囲気でした

最近の趣味

この数年主人と共に社交ダンスをしていることは以前も書きましたが、実は昨日からジャズダンスも始めることにしました。
それでこの1年くらい習っていたタップダンスは、ジャズダンスの代わりにやめる事にしたんです。

タップダンスは足を主に使うダンスで踊っていても開放感よりもほぼ足しか動かせないという束縛間しか感じないのと、ステップが早いのに、足が即座に反応できないもどかしさ、それ以前に頭の働きも鈍くなっているようで、細かいステップを覚えるためにレッスン中1時間頭をフル回転させなければならず、集中力を保つのがなんだか年の私には難しくなってきました。

また一緒に始めたドイツ人とイギリス人の友人も私と同じくらいの年のせいか、また私以上になんだか動きが遅く(ごめんなさい)、そんな鈍い私達のせいで先生が教えてくれるステップは1年前からほとんど変化もなく、このまま上達するには5年はかかりそうと考えたらむなしい気分にもなってきました。

それでもその2人と3人仲良くレッスンを受けるのはまるで仲間内のプライベ-トレッスンのようであり、先生はロシア人の若くて綺麗なお嬢さん、しかも物理の博士課程中の学生さんというインテリで、レッスンは英語。
というのも彼女はまだ1年もドイツに住んでいないので、ドイツ語をしゃべることができず、英語での授業になっているわけですが、この私の20年来のイギリス人の友人の英語は゛ザ・クイ-ンイングリッシュ!゛という感じで超美しく、1週間に一度は英語を使うというのも楽しく、また私以外は全員金髪の細身美女で、3人を見ているだけでも気分が良くられるので、文句も言わずとにかく続けてみようと思っていたわけなんです。

でもタップダンスの次の時間に、私達のタップダンスの先生(そのロシア人の美女で可愛い博士課程学生さん)がジャズダンスのレッスンも始めることになり、体験レッスンを受け、気持ちは決まりました。

ジャズダンスのなんと解放的なこと!

子供時代に最初に始めたのがジャズダンスということもありますが、社交ダンスではどんなに私が上手に踊れたとしても、主人が私の足を引っ張っているわけで、一人どんどこ華麗に踊ることは不可能です。
体があまり密接しなくて良いルンバやサンバなどのラテンでは多少自分のスタイルで多少自由になれても、ワルツやタンゴ、スローフォックスなんかは2人で一体で踊らなければ美しくすら見えません。

それがジャズダンスはどうでしょう!
最初から最後まで、足の上げ方、手の動かし方、首の角度、回転の速度、全部自分の技術範囲で踊ることができるではないですか!

主人から足も引っ張られず、自分だけの責任で最初から最後まで踊っていいなんて、この開放感は素敵過ぎて、また久しぶりでびっくりしました。

ツンバもこの1年くらいしていますが、ツンバよりより一層自分で自分の世界を表現できるジャズダンスにクラッとしてしまい、いくら元気な私でもタップダンス後にまた1時間半のジャズダンスはきついので、タップダンスは残念ながらやめる事にしました。

仲良くなった2人の仲間と会えなくなるのは少し寂しいのですが、友人達は理解してくれました。

人生半分以上が過ぎて、こんな楽しいことがまだ待っているなんて思いもしませんでした。
好きなことがあるというのは幸せなことです。

長い間子供達のサッカーばかり見ていた生活から随分遠くなり、自分の好きなことばかりできる生活にだんだん近づいてきているようで嬉しいです。

人生まだまだ色々ですね



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