プロフィ-ル

マルゴママ

Author:マルゴママ
ドイツ北西部の片田舎でかれこれもう16年生活しています。ドイツ人の夫と、3人息子、そして一人娘(?!)の猫マルゴと共に、ドイツの子供の生活、ドイツサッカ-をはじめ、テニスやブレイクダンス、またドイツの村での生活風景を気のむくまま綴っていきたいと思っています。
 

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テニスとサッカ-  その2

ところで、私は決してテニスの方がサッカ-より簡単で
運動音痴でも大丈夫なスポ-ツと言っているわけではないので、
そこのところお間違えのないようお願い致します。
テニスなら運動があまり得意ではない三男にもできるかも、と
考えているのは事実ですが、それは中・上級レベルの話ではなく
あくまで初級レベルの段階では、ということなんです。

サッカ-はまず足が速いか、あるいは持久力が人並み外れて
あるかというのは最初の段階から最後まで大変大きな武器になると思うのですが、
テニスでは初級の段階では、いかに相手よりテクニックで勝って
いるかが、勝敗を決定する要素になるような気がするのです。
もちろん中級・上級になるにしたがって、サッカ-でもテクニックが、
そしてテニスではやはり運動能力の高さが求められるのはいうまでもありません。
テニスでどんなにテクニックがあっても、走ることができなくては
村の大会でだって優勝することなんてあり得ないでしょう。

話はかわりますが、例えばサッカ-王者バイヤンのオランダ人ロッベン氏は
( http://chipi616.blog.fc2.com/blog-entry-240.html )
テニスがプロ級に上手いそうですし、その逆にテニス界でも
サッカ-が上手なテニス選手は結構いるそうです。
先日全米オ-プンで準優勝した錦織さんはサッカ-もお上手だそうです。
(ちなみに世界最高のサッカ-選手メッシ、Cロナウド、ファンペルシさんや、
ワイルドなバロテッリ、香川選手というサッカ-界でそうそうたる方たちは
実は卓球がものすごく上手なのだそうですが、私は個人的にあまり卓球を
かっこ良いと思ったことはないんで、ちょっとびっくりでしたが。。
ま、私がどう思おうがそんなの余計なお世話です)
プロのスポ-ツ選手になるような方たちは身体能力や動体視力が
はじめから普通の一般人とは違うでしょうし、勝負師としての心構えも
もともと違うでしょうから、そういう人達は例えどんなスポ-ツでも
大成した可能性があったのでしょうね。


うちの三男に話を戻せば、最近村の弱小チ-ムにて
サッカ-を再開しましたが、なんとそこでも一番(ひいき目に見ても
2~3番目)下手っぴでびっくりしました。
うちのD市の一番のクラブで、優秀な監督さんのチ-ムの中で
下手だったのは、残念でありながら納得もできましたが、
この村弱小チ-ムでさえもベンチ要員になりそうな三男なんです。。。
彼がD市のチ-ムに移ったときには、三男にいつか訪れるであろう、
サッカ-でとびぬけて上手になるに違いない、と
いう夢を、長男と私は三男に対して持っていました。
上手になる機会は上の2人より揃っていたのにもかかわらず、
運動神経がそもそそもあまり発達していない上、
体力も気力もない三男にはまず全試合を走りぬき、
ボ-ルを競り合って、しかもゴ-ルするなんて芸当はどうも無理そうです。
今後ますます他の子供たちと差がついていく中、彼にとって
サッカ-を続ける意味はあるのかどうか非常に疑問です。
とはいっても本人がやめたいというまでは続けさせますが
不得意なことに時間をさくよりも、得意なことに時間を使うほうが
有効なんではないかと思っているのも事実です。

3人とも同じに生んで育てているのに、子供というのは
本当に三人三様、親の期待通りにはならないものなんですね。

でも三男にも何か得意と思えるものを見つけてあげたいと思っています。
テニス・テコンドも楽しくしていますが、以外に彼の性に合っているのが
どうもピアノのようで、男の子なのにスポ-ツ系ではなく
文系タイプなのかもしれませんね、男子としてはちょっと残念ですが。。。

そんなわけで「アマチュアリ-ガ-を目指す3人」ということで始めた
ブログですが、上の2人はともかく、三男がサッカ-をするのは
多分あと数年だけかな、と思ったりする今日この頃です。

テニスとサッカ-

以前にも書いたと思いますが、うちの長男と次男はもう
8年もテニスをしていて(三男は今年で2年目)
長男にいたってはうちのクラブのジュニアの中では一番上手で、
また趣味程度にテニスはしたことをはあるという、腕自慢の
他のお父さんたちには負けないですが、外のクラブ選手との
対戦へ行くと、2歳年下の相手にも負けてしまうのが現実です。

なぜかといえば、うちの小規模クラブでは、8年とはいうものの
1年のうち4月から10月の7ヶ月間、週1回1時間のコーチ付き
トレ-ニングしかしていないからで、年間を通して、週に3回練習
そのほか1回の試合をこなしている、よそのクラブの子供たちには
未来永劫勝つ可能性がありません。例えその子供たちがまだ3年しか
テニスをしていなくても、例え少し太り気味の子でも、やせっぽちの
子でも、その3年の間のちりも積もった時間と試合の場数で、
スポ-ツ神経は人並み以上には良いうちの長男でも、8年という
長い年月をかけたものであっても、絶対に勝つことはできないのです。
昨年と今年の大会参加の経験で身にしみてそのことを理解しました。

この経験から色々考えて、テニスで大事のなのはまずは技術力、
サッカ-で大切なのはとにもかくにも運動神経なのでは、
とついには思い当たりました。
テニスもサッカ-もスポ-ツですから、一流選手になるためには
もちろんどちらのスポ-ツでも運動神経は欠かせない条件ですが、
趣味あたりでする際には、テニスはとにかく少しでも長い時間を
練習に費やしたか、あるいは試合により多く出た経験があるかで、
初歩の段階では勝敗が決まるという気がします。
サッカ-はある年齢までは、例えば足が速ければ技術以上に強い武器に
なりますが、テニスではどんなに早く走れても体力で負けなくても、
高い技術を持つ相手なら到底勝つことはできず、ただ走り回されるだけで
簡単に試合が終了してしまうでしょう。

今回も少しおデブちゃん(失礼!)相手に、うちの長男の
よく走ったこと。。。 
6歳の時から、いつもサッカ-で走ってきた彼なんで、
走ることは朝飯前ですが、今回の試合では
そんなものはほとんど役に立たず、相手の技術力を前に、
タイブレ-クの末についに負けてしまいました。
次男も2歳年下のやせっぽちちゃんにこれまたタイブレ-クで破れ
次男は「相手は運が良かった」と負け惜しみを言っていましたが、
その゛運゛はどこから来るのか考えなければなりません。
思うにこれは1回でも多く、打ち込みを練習した方が勝つ世界なんだと
いうことなのではないでしょうか。
1対1で、チ-ムプレイではない分、一瞬の油断や気の緩みが即
勝敗を分けるのがテニスで、試合中は100パ-セントの集中力が
求められる-しかもたった一人で-見ている方もサッカ-とまた
違った観戦気分を味わえます。時間が凝縮しているというのでしょうか。。

この大会に出る前、長男に「将来趣味でテニスのトレ-ナ-したら」と
言ったら「無理だよ、自分はテニスは全然できないから」との返事で
「あらあら、8年もしていてできないなんてあるのかしら」と私は
内心思っていましたが、テニスの知識がゼロの私よりはまだテニスのことを
多少理解している彼にはそのことがはっきりわかるのですね。
自分たちは、バリバリテニスをしている他のクラブの子供たちのような
打ち方さえできないよ、と言っているのは印象的でした。

8年間テニスをしてわかったことが「自分ができないことを知っている」と
いうことなのは、お金を払い続けた親としては少し複雑な気分では
ありますが、当初9歳で始めた時は「テニスなんてサッカ-と
比べたら簡単、簡単」とほざいていた頃よりは、勉強できたということでしょうか。
自分が下手なこと、テニスもサッカ-と変わらず、違う意味で
充分難しいということを自分で理解できたのは、なんとなく違う意味で
大きな成長であるとも思えます。

こんなことから、実はサッカ-の才能は全くなさそうな三男には
テニスを主にさせてみようかと考えました。
初歩までは練習の多さで、上手い下手が決まりそうなテニスなら
運動がそれほど大得意ではないうちの三男でもどうにかなるのでは、と
考えたのです。
でもテニスの問題はとにかく金額が高いことにあります。
冬は外でできないので、屋内型のテニス場を借りるお金がかかる上、
サッカ-と違ってコ-チのレッスン代もかかります。
それで色々検討した結果、三男の年間を通した練習プランは
今回は見送りました。
そのかわり、来年度の4月からは私が会員になり、いつでも
三男とテニス場へ行けるようにすることにしました。
習うより慣れろ、のテニスなので、少しでも多くテニス場へ通って
テニスをさせ、そして来年度以降のことはそのあと様子を見ながら
もう一度検討したいと思っています。

でも今回は「自分ができないことを知ってる」長男に少し感心しました。
あいかわらず「相手の運が良かっただけ」とほざいている次男は
まだ長男よりテニスというものがわかっていないのでしょうね。
これが13歳と16歳の差なのかもしれませんね。

テニス シ-ズンオフ前プチパ-ティ

久しぶりにテニスです。

うちのテニスクラブはうちの付近でも規模最小のテニスクラブなので
とってもリーズナブルなんですが、会員も少ないので
11月から3月まではお休み期間になります。
なので、父兄も参加のシ-ズンオフ前最後の
テニスパ-ティ-をしました。
141018 029
ドイツパ-ティ定番の、持ち寄り式パ-ティで
各家庭の手作りケ-キと軽食がならびました。
ブラウニ-、チョコとナッツ、ヨ-グルトクリ-ムケ-キ、
スポンジケ-キが並び、軽食にはミニハンバ-グ、
やきとり(みたいなもの)、色々なパン、野菜のスティックなんかもあり、
25名くらい参加のこれまた小規模パ-ティでしたが、
皆がお腹いっぱいになるくらいはありました。
皆がそれぞれ持ち寄り色々なものを食べることができ、その上
とてもリ-ズナブルパ-ティで、私はドイツスタイルのこの
お気軽パ-ティが結構好きです。
141018 028
ミニテニスト-ナメント付きで、うちの長男と次男は2人で
ダブルスで参加。
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皆が並んで見ているのは
20141018_174201.jpg
うちの三男ともう一家族のやはり三男同士の対決でした。
141018 053
各家族、お父さんと息子がダブルスで参加して
みな本当に楽しそうでした。
20141018_175819 - Kopie
最後はお世話になっているコ-チへ皆で商品券(スポ-ツショップ)の
プレゼント。これもこんな会には定番です。

冬になる前の最後のテニスでした。

カ-ル6世とカ-ル7世

ここ最近私の趣味嗜好で、なんだか偏った歴史の話になり、
いいかげん、あきられた方もいらっしゃることでしょう。
なので今回のテーマを最後に一度、プチ歴史ブログは
お休みしたいと思うのですが、最後はやはりこのテーマを選んでみました。

結局、神聖ロ-マ帝国皇帝で 偉大なるシャルルマ-ニュの
゛カ-ル゛という名の皇帝は、何人いたのでしょうか。


西ロ-マ皇帝(フランク・ロ-マ皇帝)  

カロリング朝
初代 カール大帝(ローマ・フランク王768年  皇帝戴冠 800年)
http://chipi616.blog.fc2.com/blog-entry-254.html

カ-ル2世禿頭王-西フランク王国の初代国王
(西フランク王843年  皇帝在位 875年)
http://chipi616.blog.fc2.com/blog-entry-257.html

カ-ル3世肥満王-フランク王国最後の統一、フランク・ローマ皇帝
(イタリア王879年 ロタリンギア王882年  
東フランク王882年  西フランク884年   皇帝在位 881年)
http://chipi616.blog.fc2.com/blog-entry-260.html
http://chipi616.blog.fc2.com/blog-entry-258.html


神聖ロ-マ帝国皇帝

ルクセンブルグ家 カ-ル4世(国王選出1346年  皇帝戴冠 1355年)
http://chipi616.blog.fc2.com/blog-entry-256.html

ハプスブルグ家  カ-ル5世(国王選出1519年  皇帝戴冠 1530年)
教皇による戴冠を受けた最後の皇帝
http://chipi616.blog.fc2.com/blog-entry-253.html


1806年に最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世
(オーストリア皇帝フランツ1世)が、神聖ローマ帝国の
解体を宣言、帝位を自ら放棄し、ここで844年の歴史を誇った
神聖ローマ帝国はついに名実ともに消滅・滅亡しますが
その1806年までは2人のカール皇帝が存在しました。


ハプスブルグ家 カ-ル6世
(国王選出1685年  皇帝戴冠 1711年)

ヴィッテルスバッハ朝(バイエルン朝) カール7世
(国王選出1742年  皇帝戴冠 1742年)


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カール6世は、カ-ル5世から10代目の神聖ロ-マ帝国皇帝で
フリ-ドリヒ3世からのハブスブルグ家最後の皇帝です。
この方は、かの有名なオ-ストリアのマリア・テレジアの実父でしたが
男児には恵まれず、4人の娘がいましたが、その中でも成人したのは
たった2人だけでした。

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一方カ-ル7世はヴィッテルバッハ家の神聖ロ-マ皇帝で
在位は1742年から1745年でした。3年というとても
短い在位だったのは、マリア・テレジアの大反撃があったからです。

彼女の父カール6世には男児がいなかったため、
マリア・テレジアの従兄弟の主人で(彼自身も
神聖ローマ皇帝だったフェルディナント2世の玄孫)
バイエルン選帝侯だった、カール・アルブレヒトが
この最後のカ-ル皇帝となったわけですが、
マリア・テレジアはカールの死後に皇帝位を奪還し、
1745年10月には夫フランツ・シュテファンを帝位に就けることに成功し
その後、2人の子供の代からはハプスブルク=ロートリンゲン家
(夫フランツの出身がロートリンゲン家-フランス国境沿い
の小国ロレーヌ公国出身)として、神聖ロ-マ帝国の後継者となりました。
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(ティ-ンエイジャ-の頃のマリア・テレジア女帝)


そしてこのカール皇帝たちはそれぞれ

カール1世 リェ-ジュ近郊生まれ

カール2世 フランクフルト・アム・マイン生まれ

カール3世 不明 でも現在のドイツのあたりかと思われます。

カール4世 プラハ生まれ

カール5世 ゲント生まれ

カール6世 ウィ-ン生まれ

カール7世 ブリュッセル生まれ


ということで、生まれた場所からも色々な想像が
できますよね。
なかでもフランク王国を統一したカール大帝、
日の沈まぬ国を統治したカ-ル5世がそれぞれ
現在なら車で1時間半程の距離の場所で生まれているということは
なんだかロマンを感じませんか?

ひとつの事柄から色々なことを感じさせてくれる歴史って
本当に面白いですよね。

ではしばし歴史の話題はお休みにします。
長い間おつきあいいだいてありがとうございました。


神聖ロ-マ帝国からドイツ帝国へ

西暦1000年頃の、神聖ロ-マ帝国の地図。
ザクセン朝(リウドルフィング朝)オット-3世のころです。
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12世紀の地図。 Holy Roman Empire と書いてある
肌色の部分です。少し大きくなりました。
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13世紀。フランスや神聖ロ-マ帝国に大きな変化は見られませんが
実際に「神聖ローマ帝国」という表現が史料上現れたのは、この頃です。
13世紀にはドイツ騎士団がバルト海沿岸を征服し、同じ頃、商人と手工業者
による中世都市がドイツ各地に築かれ、アーヘン、ケルンなど有力都市は
皇帝から特許状をもらい帝国都市となったのです。1
また北ドイツの有力都市は相互の利益と防衛のためハンザ同盟を結成し、
リューベックを盟主に最盛期には100を越える都市が参加したのもこの後です。
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14世紀。カ-ル4世が皇帝に即位した頃です。
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15世紀の頃。ついに後の名門ハプスブルグ家が皇帝に。
ジンギスカンが興したモンゴル帝国のなんと強大なこと。
それにポ-ランドも強国だったんですね。
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16世紀の頃。スペインのカール5世が神聖ローマ皇帝に。
1520年以降、有力諸侯ザクセン公フリードリヒにかくまわれた
マルティン・ルタ-がドイツ語訳での新約聖書発行に着手しはじめます。
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17世紀。ロシアが非常に大きくなってきました。
1618年から1648年には30年戦争が勃発。これはボヘミアにおける
プロテスタントの反乱をきっかけに勃発し、神聖ローマ帝国を舞台として
戦われた国際戦争で「最後の宗教戦争」、「最初の国際戦争」と異名があるそうです。
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18世紀。
三十年戦争が終わると、ドイツ地方各地には諸侯が分立し、
自由都市や小国が独立国としての権威を獲得したため、
神聖ロ-マ帝国はなんだか地域単位で細かくまとまりごちゃごちゃな
地図になってしまいました。
1871年、20数カ国の国の中で最も力をつけたプロイセンは
デンマーク、オーストリア、フランスとの戦争に勝ち、
宰相ビスマルクの下に、プロイセンを中心とした、ドイツ帝国を
成立させました。ちなみにプロイセン王国というのは、現在の
ベルリン周辺を領有していたブランデンブルク選帝侯が゛プロイセン王国゛と
名乗ったのがはじまりだそうです。
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19世紀。
1803年–1815年のナポレオン戦争は、ナポレオン率いる
フランスとその同盟国対、イギリス、オーストリア、
ロシア、プロイセンなどのヨーロッパ列強の対仏大同盟との戦いでした。
これによりドイツの西北(現在のノルトライン=ヴェストファーレン州の一部)は
ナポレオンの支配下に置かれました。
ナポレオン失脚後、ウィーン会議(1814-1815年)が開催され、
ウィーン体制と呼ばれるヨーロッパの国際秩序が形成されました。
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20世紀。
第一次世界大戦末期にドイツ革命が起こります。
1918年11月に水兵の反乱に端を発した大衆的蜂起と、その結果
カイザーが廃位され、ドイツ帝国が打倒された革命です。
ドイツでは議会制民主主義を旨とするワイマール共和国(ドイツ共和国)となります。
第一次世界大戦後、ルール地方は1923年1月から1930年6月まで
またもやフランスとベルギーの占領下になります。それから世界恐慌など
色々なことが起こり、1933年1月30日、国家社会主義ドイツ労働者党ヒトラーが
首相に就任し、ヒトラー内閣が成立したことにより、ワイマ-ル憲法はもはやなんの
意味もない無用の空文になりはてます。1945年にヒトラ-が死亡するまで
わずか12年で、ここまで広大になったドイツ第三帝国でした。
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しかしながら敗戦で第2次大戦後、東西に分割されたのはご存知の通りです。
2 krieg

そして21世紀。ほぼ現在です。
(この地図ではまだドイツは東西にわかれたままですが)
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長い長い1000年の歴史をかけ、やっと現在の地図に落ち着きました。
こうやって゛今゛(厳密に言えば少し過去ですが)の地図を見ると、
気分がほっとするのは私だけでしょうか。。。

フランク王国から神聖ロ-マ帝国へ

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(青がカール即位時のフランク王国、赤橙がカールの
獲得領、黄橙がカールの勢力範囲、濃赤はローマ教皇領)

こちらはカール時代のフランク王国(ピンク以外)で、フランク王国が
どのくらい大きい国だったかわかりますが、カールの孫の時代には
3つに分割されることになります。有名なヴェルダン条約です。

ルートヴィヒ敬虔王には息子が4人いました。でも次男のピピンは
シャルルとルートヴィヒ対ロタールとピピンという兄弟間での相続争いの途中、
838年に死去。ピピンの早世と、840年に敬虔王が薨去するに
至って、領土を巡る兄弟の対立は頂点を迎え一層激化します。

842年、ストラスブールの誓約、そして843年のヴェルダン 条約 において、
王国を3分割された話はもうご存知でしょう。

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(オレンジ:西フランク 薄緑:中部フランク  濃い緑:東フランク)

855年にロタ-ル1世が死去により、3人の息子息子ロドヴィコ2世(ルイ2世)、
ロタール2世、カールによってさらに分割され、869年にカールが、さらに869年に
ロタ-ル2世が早世するにあたり、ルートヴィヒ2世とシャルル2世禿頭王が中部フランク
王国を分割、それによりの結果、ルートヴィヒ2世はイタリアのみの領有が許され、
ロタリンギアは東フランクに、プロヴァンスは西フランクに組み込まれることとなります。

これがメルセン条約でこれによって、現在のイタリア、ドイツ、フランスの原型が
形成されました。870年のことでした。
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875年に皇帝ルートヴィヒ2世(彼は西ロ-マ皇帝でもありました)が
死去すると、またまた西フランク王シャルル2世禿頭王がイタリアに
侵攻して帝位に就きます。(禿頭王シャルルは欲張り王でもありました)
881年にそのシャルル2世が死去するとルートヴィヒ2世の
三男のカール3世肥満王(この方も肖像画のお姿は欲張りさんな感じです)が
西ローマ皇帝となり、その後、彼は遺領相続によって東フランク王と
西フランク王を兼ねてカロリング帝国の再統一されますが、無能さから
887年にカール3世は東フランク王を廃位されてしまい、翌888年に彼が
死去すると帝国は再び分裂、そして2度と再建されることはありませんでした。

911年にアルヌルフの後継者のルートヴィヒ4世幼童王が死去すると
東フランクのカロリング家は断絶し、こちらもこれまた解体しかけていた
東フランク王国ですが、ハインリヒ1世の業績によって再統一されます。

962年2月2日にローマにおいて教皇ヨハネス12世によりハインリヒ1世の
息子オットーがローマ皇帝に戴冠し、ここにカロリング家以外の西ローマ皇帝
ザクセン朝オットー大帝が誕生。
この戴冠が一般的には神聖ローマ帝国の始まりとされています。
しかしながら、当時は「神聖ローマ帝国」(Heiliges Römisches Reich)なる
名称は存在せず、オットー1世の戴冠によって新たな国家が誕生したわけでは
ないことを確認しなければいけません。
西フランクはフランス王国へ移行、中部フランクは分割され、一部はイタリアと
して独立、一部は神聖ロ-マ帝国領土へ組み込まれていきましたが、
「神聖ローマ帝国」とはあくまでもカロリング帝国からの継続した
ローマ教会の保護者、そして西洋世界の支配者たる「ローマ皇帝」で
あったわけで、最初は中部フランク王ロタ-ルが継いだ継承でしたが
この名称は結局は東フランク王国が、「神聖ローマ帝国」として
引き継ぐことになったわけですね。歴史は面白いです。

そんなわけで、次回は神聖ロ-マ帝国の地図を見ていきましょう。

フランク王国の領土

そもそも「自由にして勇敢なる者」の意味の、フランク王国を
建国したフランク人とは、もともとどこから来た民族だったのでしょうか。

フランク王国のフランク族の一派「サリ-(Salii)」族と
呼ばれていた人たちで、もともと現在のオランダ南部に
当たる地域から現在のベルギー北西部に住んでいた、
サリ-・フランク人がこのフランク人でした。

オーファーアイセル州にサラント(Salland)地方があり、
アイセル川の古名もサラ(Sala)と言ったことから、これらの地名と
関係があると考えられているそうです。
またそのもっと昔をたどれば、もともとは「フランク」ないし「フランク人」
という民族が存在したのではなく、ゲルマン系、イラン系、ケルト系、
ラテン系の諸部族・諸集団の離合集散によって形成されていた一種の連合政権
だったという説が今では主流なのだそうです。
Frank358.gif
西暦358年のヨーロッパの地図で、オレンジがロ-マ帝国、
そしてサリ-・フランク人の発祥の地-現在オランダのエンスヘーデという都市のあるー
紫色の部分です。今のオランダのハ-グ・ライデン・ロッテルダム、
ベルギ-のゲントのあたりブルュッセルくらいまででしょうか。
ここの紫の部分でFrankish foederatiと書かれているんですが、
フォエデラティとはロ-マの同盟国(ローマの警備を受け持つ傭兵)の
ような意味だそうです。

そして次の482年ではフランク族の領土が広がっていっています。
358年から、460年には青、482年には水色と領土を広げました。
Frank482.gif
475年最後の西ロ-マ帝国皇帝ロムルス・アウグストゥルスが
ゲルマン人の将軍オドアケルによって退位に追い込まれ
「西ロ-マ帝国滅亡」という大事件が起こった時代でした。
時は、フランク族をはじめ西ゴート族、ブルグント族、アーモリカ族、
サクソン族等々のゲルマン系諸であるフォエデラティの傭兵達の力が
ロ-マ兵、ローマ帝国よりも強大になっていたのです。
Frank537.gif
そんな中フランドルを支配していた小国の王クロヴィス1世(465年 - 511年)が
勢力を伸ばし領土を拡大。
全フランクを統一し、481年、メロヴィング朝を開いたのがこの頃でした。
そして、511年にはサリ-・フランク族の領土はこんなにも巨大になったのです。

ところがクローヴィスの死後、王国は4子(上からランスを治めるテウデリク、
オルレアンを治めるクロドミール、パリを治めるキルデベルト、
ソワソンを治めるクロタール)に分割されることにより、国力まで衰えます。
400px-ClovisDomain_japref.jpg
7世紀に入ると王国はさらに分裂。
Frank714.gif
ブルターニュ、アキテーヌ、アレマニア、テューリンゲンやバイエルンなどの
周辺地域が独立を求め、兄弟間での争いも加熱していき、そんな中で
左右の周辺地領土も失われて(緑部分)いき、そしてついには分割された
分国(地域)の宮宰に権力までも移っていくわけです。
そしてついに712年にはアウストラシア(現在の
フランス東部、ドイツ西部、ベルギー、ルクセンブルク、オランダ)の
カロリング家の宮宰のカール・マルテル(カール大帝の祖父)が登場。
751年にはマルテルの子、ピピン3世(小ピピン)がローマ教皇の支持を得て
カロリング朝を開いたことで、14代(481年から751年)、約300年に
わたったメロビィング朝は終焉を迎えます。
Frank768.gif
768年には、ピピン3世の功績でフランク王国を示す紫の領土も再び広がり
カ-ル大帝の時代をへて、彼の没年にはついにここまで広がったのはご周知の通りです。
Frank814.gif
次回はフランク王国からドイツへと、地図を見ていきます。


東フランク王から神聖ロ-マ帝国皇帝へ

西フランク王国がカロリング家から
カペ-家へ移ったように、東フランク王国も
911年ルートヴィヒ4世の死により、カロリング家は断絶
その後はフランケン朝、ザクセン朝、ザーリアー朝、
ホーエンシュタウフェン朝などが王位、及びに皇帝位を継承していきます。

ということで今回は誰が、そしてどの王家が東フランク王国(ロ-マ王)の
皇帝位を継承していったのかを見ていきたいと思います。


東フランク王国王


カロリング朝

ルートヴィヒ2世(ルートヴィヒ敬虔王の息子)ドイツ人王
(在位:843年- 876年)

カールマン2世(ルートヴィヒ2世の長男)
(在位:876年- 880年)

ルートヴィヒ3世若年王(ルートヴィヒ2世の次男)
(在位:876年- 882年)

カ-ル3世肥満王(ルートヴィヒ2世の三男)
(在位:876年- 887年)
(上の3人は兄弟3人での共同統治)

アルヌルフ(カールマン2世の庶子でベンガ-リオ1世の甥)
(在位:887年- 899年)

ルートヴィヒ4世幼童王(アルヌルフとコンラ-ト家の子)
(在位:899年- 911年)

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(ルートヴィヒ4世幼童王)

父王アルヌルフはなんと幼童王6歳の時に死去、幼い彼は
東フランク王を継承し、900年には異母兄ロランギリア王が
亡くなり、ロタンギリア王も兼ねますが、マジャ-ル人の侵入などの、
苦労がたたったのかなんと17歳の若さで死去してしまいます。
これにより東フランクのカロリング家も断絶し、王位は彼の異母姉の子、
フランケン大公だったコンラ-ト1世が継承します。

そしてここまでは東フランク王の歴代国王でしたが
ここからの王様の在位は、神聖ロ-マ帝国皇帝での在位とします。
なぜならここからは東フランク王とはローマ王(ドイツ王)の意味で
そのドイツ王国とは、神聖ローマ帝国を構成する3王国(ドイツ王国、
ブルグント王国およびイタリア王国)の1つとして位置づけられ、
その王達が神聖ロ-マ帝国皇帝として戴冠するようになっていくからです。
しかしながら当時は「ドイツ」という意識も言葉もなく
「ドイツ」という国は後世に作られたものだそうですが。。。


フランケン朝(コンラ-ト家)

コンラ-ト1世((アルヌルフの孫)
(在位:911年- 918年)


嫡子がいなかった彼は、王国の分裂を防ぐために、
宿敵のザクセン公ハインリヒ1世を後継者に指名し、
918年に37歳で逝去します。


ザクセン朝(リウドルフィング朝/オットー朝)

ハインリヒ1世狩猟王(ザクセン朝ドイツ王国初代国王)
(在位:919年- 936年)


ワーグナ-の歌劇「ローエングリン」で国王として登場するのは
このハインリヒ1世です。第3幕でハインリヒ王による
「ドイツの国土のためにドイツの剣をとれ!」との演説は、
ナチス・ヒットラ-にも利用されることになります。
バイエルン王国の皇太子ルートヴィヒ2世がこのオペラに魅了され
白鳥城を建設したのは有名な話ですよね。
ロ-エングリン
(オペラ ロ-エングリン)

オットー1世(ハインリヒ1世の子・オットー大帝とも呼ばれる)
(在位:936年- 973年)

936年オットーはカール大帝に倣い、東フランク王国国王の
戴冠式をアーヘン大聖堂(エクス・ラ・シャペル)で挙行しますが、
正式にローマにおいて教皇から皇帝の冠を授かるのは962年でした。
また「神聖ローマ帝国」の国号が使われ出したのは
13世紀以後のことで、まだ後のことでありますが、世界史ではこの時を
もって神聖ローマ帝国の誕生としているそうです。

オットー2世(オット-1世の子)
(在位:973年- 983年)

オットー3世(オット-2世の子)
(在位:983年- 1002年)

ハインリヒ2世(ハインリヒ1世の曾孫)
(在位:1002年- 1024年)


1002年にオットー3世が急死して直系が断絶、1024年に
帝位を継いだ弟ハインリヒの孫のハインリヒ2世も
子の無いまま死去、ザクセン朝は断絶しました。
ハインリヒ2世の後を継いで皇帝に即位、ザーリアー朝を開いたコンラート2世は
コンラート赤毛公とロイトガルトの曾孫であります。


ザーリアー朝(フランケン朝とも呼ばれる)

コンラート2世
(在位:1027年- 1039年)


コンラートは1033年に相続によってブルグントの王位も手中に収めます。
このことによって、ドイツ(東フランク)・イタリア・ブルグントと
いう3国の王冠が一手に掌握されました。この3国の領域が、いわゆる
「神聖ローマ帝国」の支配領域を規定する雛型になったと言われています。

ハインリヒ3世黒王(コンラート2世の子)
(在位:1046年- 1056年)

戴冠前にみずから「ローマ王」を名乗った王様で、
これがのちに神聖ローマ皇帝位継承者がローマ王を
名のる習慣の端緒となったわけですね。

ハインリヒ4世(ハインリヒ3世の子)
(在位:1056年- 1106年)

教皇グレゴリウス7世と激しく対立して教皇を破門、
ところが逆に教皇から破門、王位の剥奪も宣言されたために、
教皇の赦しを願った有名な「カノッサの屈辱」事件の主人公が
このハインリヒ4世陛下でした。
(でもこの時、よく言われるような雪の中で裸足で食事もなしに
3日間立っていたという事実の記録はないのだそうですが)

なのでその間のドイツ王(東フランク王・ロ-マ王)は

ルドルフ(ラインフェルデン家・ハインリヒ4世の対立王)
(在位:1077年- 1080年)

ヘルマン(ザルム家・ハインリヒ4世の対立王)
(在位:1081年- 1088年)

コンラート(ハインリヒ4世の長男・父と共治王)
(在位:1074年- 1101年)


皇帝としての戴冠はされていないこの3人がいました。
そしてザーリア朝の最後の皇帝が

ハインリヒ5世(ハインリヒ4世の次男)
(在位:1111年- 1125年)

ですが、彼は父ハインリヒ4世に反逆したばかりではなく
ロ-マ教皇とも争い、最終的には1122年にヴォルムス協約が結ばれ
「聖職者叙任権は教会にあり、皇帝は世俗の権威のみを与える」
という取り決めが決められます。
ここで教会の権力は名実ともに決定的なものになりました。
生存中争い事ばかりのハインリヒ5世でしたが、最も大切な
世継ぎは残せることなしに、ザ-リア朝はなんと彼の代で断絶。
そこで次の皇帝に選出されたのが、


ザクセン朝(ズップリンブルク家)

ロタ-ル3世
(在位:1125年- 1137年)


でした。ハインリヒ4世との戦いで戦死したザクセン出身の貴族の
ゲープハルトの遺児で、相続と婚姻で領土を広げていきます。
ザクセン朝ともいわれているのですが、、リウドルフィング家(オット-大帝の)
のザクセン朝と直接の関係はないのだそうです。
同じ「ザクセン」てでもまぎらわしいですよね。

そして嗣子のないロタ-ル3世は後継者に婿の
バイエルン公ハインリヒ10世を願っていましたが
色々ともめた結果出てきたのが有名な


ホーエンシュタウフェン朝

フリードリヒ1世赤髭王(シュヴァーベン大公と皇帝ハインリヒ4世の長女の次男)
(在位:1122年- 1190年)


歴代神聖ローマ皇帝の中においては有能で、後世に英雄と呼ばれ、
また、赤みを帯びたブロンドの髭を持っていたことから、
赤髭王(バルバロッサ、Barbarossa)と呼ばれていました。
50歳くらいで人生が終わるのが普通の時代で
当時68年にわたる治世はとても長いですよね。
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(フリードリヒ1世赤髭王)

彼のライバルはこれまた有名なヴェルフ家のバイエルン公兼ザクセン公
ハインリヒ獅子公でしたが、1180年に反逆罪で帝国追放に処し、
領土を奪い、この強力な宿敵を失墜させることに成功します。


ハインリヒ6世(フリードリヒ1世と2番目の妃の子)
(在位:1191年- 1197年)

フリードリヒ1世赤髭王が長生きしたにもかかわらず、
なんということか皮肉なことに息子のハインリヒ6世は
マラリアで32歳の若さで病死。
幼少の息子に皇帝位を継がせる願いはかなわず
父王の最大のライバルだったハインリヒ獅子公と
イングランド王ヘンリー2世の娘マティルダの次男が次の皇帝に選出

ヴェルフェン朝
オット-4世(ハインリヒ獅子公とヘンリ-2世の娘の子)
(在位:1209年- 1215年)

彼もまた跡継ぎのないまま43歳で生涯を終え
帝位はまたもやホーエンシュタウフェン家へ


ホーエンシュタウフェン朝

フリードリヒ2世(ハインリヒ6世とシチリア王女の子)
(在位:1220年- 1250年)

1224年にはナポリ大学も建設した彼は「王座上の最初の近代人」と言われ
中世で最も進歩的な君主と評価されていて、ルネサンス時代を先取りした
とも思える宮廷生活を送っていた皇帝だったそうですが、
彼の死後わずか4年後には正統の血筋は絶え、その後「大空位時代」に
突入します。

諸侯や教皇は自分たちの利害もからみ、皇帝選出でもめにもめ、
1273年、当時としては弱小勢力に過ぎなかったスイス出身の
ハプスブルク家のルドルフ1世(在位:1273年- 1291年)
を神聖ローマ帝国の君主として擁立します。

これをもって大空位時代は終結しましたが、ルドルフ1世は
正式にはドイツ王であり、ローマで皇帝としての戴冠を受けることは
ありませんでした。

ナッサウ家のアドルフ1世(在位:1292年- 1298年)、
ハプスブルク家のアルブレヒト1世(在位:1298年- 1308年)
も帝位に就きますが、ドイツ王としての戴冠はあっても
神聖ローマ皇帝としての戴冠はないままでした。
時代が混乱から落ち着くのは次の皇帝からです。
アルブレヒト1世の暗殺により次の皇帝に選ばれたのが、


ルクセンブルグ朝

ハインリヒ7世(ルクセンブルク伯ハインリヒ6世の子)
(在位:1312年- 1313年)

フランス語を母語としながらドイツ語も堪能で、
でもフランス名では彼はアンリです。
イタリア遠征中に客死(暗殺された疑い)、
皇帝カール4世の祖父であり、彼の弟のト-リア大司教が
後にカ-ル4世の皇帝即位に貢献したそうです。


ヴィッテルスバッハ朝

ル-ドヴィヒ4世
(在位:1314年- 1347年)



ライン宮中伯、ケルン大司教ハインリヒ、ケルン大司教、ケルンテン公が
ハプスブルグ家のフリードリヒ3世(美王)派、、一方ルートヴィヒを
支持したのはマインツ大司教、トリーア大司教、ボヘミア王兼ルクセンブルグ公、
ブランデンブルク辺境伯の4人で、互いに異議を唱えて戦争になりまたもや混乱を極めます。
周りの選定諸侯は本当にうるさかったんですね。。。

そんなわけでフリードリヒ3世が1330年に
なくなるまで2人での共同統治でした。彼の死後
やっと単独統治となり、戴冠もロ-マで執り行われます。

そのあと政策上から教皇の反感を買い、
そんな中で彼の対抗王としてカ-ル4世が担ぎ出され
無念のなか1346年に65歳で死去します。
お気の毒でした。

そしてついに次に
プラハのカ-ル4世登場となるわけです。

あまりにたくさんの皇帝で、頭の中を色々な
名前がぐるぐるかけまわってしまいませんか?
少なくとも今の私の心境は、ハインリヒもオット-も
フリ-ドリッヒもコンラ-トも、ドイツ系名前は今はあまり
聞きたくない気分なくらいです。。。。
中でもザクセン朝のリウドルフィング家とかズップリンブルク家とか
覚えにくい名前をつけないで、ただのザクセン朝にして欲しいです。

…と文句はこのくらいにして、
長くなったのでこの続きは次回に持ち越します。
次回は地図上からフランク王国から現代につながる
ドイツ(あるいはフランスやイタリア)を見ていきたいと思います。


なんだか私の趣味で、マニアックな方向になってしまっているこの中
ー しかも面白みはなくつまらない皇帝リストを、最後まで読んでくださった方には
ほんとうに感謝、感激です。。。

でも次回もぜひ読んでくださいね☆
 

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