プロフィ-ル

マルゴママ

Author:マルゴママ
ドイツ北西部の片田舎でかれこれもう16年生活しています。ドイツ人の夫と、3人息子、そして一人娘(?!)の猫マルゴと共に、ドイツの子供の生活、ドイツサッカ-をはじめ、テニスやブレイクダンス、またドイツの村での生活風景を気のむくまま綴っていきたいと思っています。
 

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西ロ-マ皇帝カ-ル3世

ではカール肥満王とシャルル単純王はどちらが歴史的には
カール3世として認識されている人物なのでしょうか。

2人ともカロリング家出身という点では同じカ-ル大帝の
後継者ではあります。
ですがカール大帝は、フランク国王であると共に、西ローマ皇帝でもありました。

この時代に必要なことは、西ロ-マ帝国とは実際はフランク王国のことだけれど、
カール大帝の孫の代には、西フランク、東フランク、中部フランクが分離したために、
西ローマと西フランクはそれぞれ別個に見ていかなければいけないということなのです。


歴代西ロ-マ帝国皇帝(フランク王)は

カ-ル大帝(在位800年 - 814年)
ルードヴィヒ1世敬虔王(カール大帝の子)
(在位816年 - 840年)
ロタール1世(ルードヴィヒ敬虔王の子・中部フランク王)
(在位840年 - 855年)
ルードヴィヒ2世(ロタールの子・中部フランク王)
(在位855年 - 875年)
カール2世(シャルル1世)禿頭王(ルードヴィヒ敬虔王の子・西フランク王)
(在位875年 - 877年)
カール3世肥満王(ルードヴィヒ敬虔王の孫・東フランク王)
(在位881年 - 888年)
グイード・ダ・スポレート(ロタールの孫・イタリア王)
(在位891年 - 894年)
ダンベルト(グイード・ダ・スポレートの子・イタリア王)(在位891年 - 898年 父グイ-ドと共同統治)
アルヌルフ(カール3世肥満王の甥・東フランク王)
(在位896年 - 899年)
ルードヴッヒ3世盲目王(アンヌルフの子・東フランク王)
(在位:901年 - 915年)
ベレンガーリオ1世(イタリア王・最後のフランク・ローマ皇帝)
(在位915–924)
ハインリヒ1世(ザクセン朝ドイツ王国の初代国王)

regenten.jpg

(わかりにくい場合はこのカロリング家の系図も合わせてご覧ください。
 ブル-が西ロ-マ皇帝、カール3世肥満王まで載っています。)


ところで、歴代西フランク王国の王は、

シャルル1世(カール2世)禿頭王
ルイ2世吃音王(シャルル1世の子)
ルイ3世(ルイ2世の子)
カルロマン(ルイ2世の子)
カール3世(シャルル2世)肥満王(摂政)
パリ伯ウード(摂政)
シャルル3世単純王(ルイ2世の末子)
パリ伯ロベール1世(ウードの弟)
ブルゴーニュ公ラウール(ロベール1世の娘婿)
カロリング家ルイ4世(シャルル3世単純王の子)
カロリング家ロテール(ルイ4世の子)
カロリング家ルイ5世(ロテールの子)
ユーグ・カペー(ロベール1世の孫)


そもそそも西ロ-マ帝国の皇帝の地位は、ルードヴッヒ敬虔王の
長男ロタ-ル(カール大帝の孫)の時には、兄弟間の揉め事で、
フランク王国は3つに分裂したために、だんだんと名目上だけの実質を
伴わない、ローマ皇帝位となりつつありました。
中部フランク国、西フランク国、東フランク国と今のイタリア・フランス・ドイツの
境界線の原型が形成され、3つの国王の誰かが西ロ-マ皇帝位も兼任する形と
なったのです。当然権力は分散された上での皇帝なわけですが、それでも
カール大帝のこの大帝国はあとに神聖ロ-マ帝国が受け継ぎ、フランスのみならず
ドイツの基礎ともなるわけですから、歴代西ロ-マ皇帝はヨ-ロッパ史上歴史に
残る皇帝達ではありますね、権力は別として。。

それで2人のカ-ルの話に戻ると、カ-ル肥満王もシャルル単純王の
後見人として西フランク王になっていますが、そもそもそれは一時的なことであり、
また東フランクのよそ者として西フランク人には好意を持たれていなかったからとか、
あるいは後のカペ-家となるウ-ド達と対立したために、その名を
無視されたからだとか諸説はあるようですが、とにもかくにも
フランス語での彼の正式な称号はあくまでも摂政であり、王ではないのです。
だからフランスから見た時には、西フランク国でのシャルル3世とは
絶対にこの単純王のことなのです。
ただし西フランクの初代王をカール大帝ではなくて、シャルル1世(カール2世)禿頭王と
して換算すると カ-ル肥満王はシャルル2世と換算することも可能です。

またシャルル単純王も911年から922年頃までロタリンギア王(イタリア)
にもなりますが、それでも彼は西ロ-マ帝国皇帝としての戴冠はうけていません。
カ-ル肥満王は、呼び名に似合わずななかのやり手だったのか、
いつのまにやら西ロ-マ皇帝としても即位しています。
彼はまた西・東だけにのみならずイタリア王でもあった歴代3人目に
して最後の西ロ-マ・フランク皇帝でもあります。
カール大帝とルードヴィヒ1世敬虔王とこの肥満王だけがフランク王国
全土の統一を果たした王でもありましたから、そう考えるとこの肥満王は
一見なかなかあなどれない人物のようではあります。
ただ西とイタリアの王位は、あいつぐ親戚の死によっての王位獲得でしたし、
彼には王として才能も熱心さもなく、癲癇を患っていたような人物だったということで
かなりの強運が彼の運命に味方しての結果だったようですが。。。
真偽は別として、そんな風に後世で言われているは、たぶん呼び名の通り、
魅力の欠ける王様だったのでしょうね、きっと。

なので西ロ-マ皇帝としてみれば、カ-ル肥満王がカ-ル3世であり、
一方フランスの歴史から見れば、シャルル3世単純王が
シャルルマ-ニュのフランク王国からフランスへと
続く西フランクのシャルル3世になるわけです。

しかし西ロ-マ皇帝、そして後に続く神聖ロ-マ帝国の
歴代皇帝のカール3世は誰か?! という問いの答えは
カ-ル肥満王こそがカ-ル3世だということは
この説からおわかりいただけたことと思います。

今回は西フランクこと後のフランスと、フランク王国こと西ロ-マ帝国の
関係を見てきたので、次は東フランクと西ロ-マ帝国、それに続く神聖
ロ-マ帝国(後のドイツ)の関係へと焦点をかえていきたいと思います。

2007_12_hy_klein.png
(西ロ-マ皇帝 カ-ル3世肥満王)

220px-CharlesIII_le_simple_Jean_de_Tillet-Recueil_des_rois_de_France.jpg
(西フランク王 シャルル3世単純王)

*だからこのお2人は日本語で表示の際には、ドイツ語読みと
フランス語読みで名前を統一するととてもわかりやすいですね。

シャルル3世単純王-東西フランク王国王

シャルル禿頭王の息子の、西フランク王ルイ2世吃音王のそのまた息子(3番目)
にあたるのがこのシャルル単純王(つまりカ-ル大帝にとっては玄孫(やしゃご)で、
ルードヴィヒ敬虔王のひ孫)ですが、誕生前に父王ルイ2世吃音王は亡くなり、
2人の異母兄ルイとカルロマンも彼が5歳の時には続けて早逝(2人とも共に20歳を
待たずに亡くなっています)という数奇な運命のもと、これまた野心家のカ-ル肥満王や、
帝国貴族のロベ-ル家のウ-ドに囲まれ、周りの権力争いの中、
無事898年19歳で西フランク王となります。

911年には東フランク王国のル-ドビィヒ4世が没して、そこの王にもなります。
また同じ年、侵入を繰り返すノルマン人ロロ(のちのノルマンディ-公ウィリアムズ
ーイングランド王の祖先)と条約を結び、ロロにノルマンディー地方と自分の娘を与え、
ロロもキリスト教に改宗します。その後、彼は西フランクのシャルル単純王に忠誠と
服従を誓い、また北フランスを他のヴァイキングからの攻撃を守ることを主条件に、
ノルマンデイー地方を中心に勢力を確立していきますが、これにより長年にわたる
ヴァイキングとの問題は一応解決されることになります。

このように良い政策も行った単純王でしたが、当時形成されつつあった封建領主に
対しては時代の波にさからえず、王国の諸侯たちとの闘争へとむかっていきます。
時代はカロリング王家ではなく、聖俗諸侯が力を付け、王を世襲でなく選挙で決める
時代になっていく過渡期に突入していたのです。
シャルルと激しい敵対関係にあったのが、フランス公ロベールで、 彼はロベール家の
ロベール豪胆公の次男でウードの弟、ユーグ・カ ペーの祖父にあたる人です。
ウ-ドは単純王の後見人の形とはいえ、一度は西フランク王国の王になったほどの
名門一家ですから時代の流れから見ても、この2人の衝突は決して避けられることでは
なかったのでしょう。

ロベールは他の貴族達の支援も受けて兵を起こし、シャルル3世はロレーヌへ退却。
ロベールは922年についに西フランク王として戴冠することとなります。
しかしながらそう簡単にはあきらめることができなかったシャルル単純王も兵を集め、
両者は923年に会戦、ロベール1世は単純王軍を破りシャルル本人を捕えますが、
伝説ではこの際2人は一騎打ちになり、ロベール自身は戦死してしまいます。

一方単純王はこのままは廃位され幽閉され、その4年後50歳になった929年10月に
幽閉されていたペロンヌ城の塔で獄死することとなります。

ところでロベ-ル1世が亡くなり、シャルル単純王も廃位されて西フランク王国は
この後どうなったのでしょうか。

ロベ-ルの娘婿のブルゴーニュ公ラウールが王位を継ぎ、その次は
シャルル3世単純王の子・ルイ4世が即位、その子とその孫まで単純王の血筋
すなわちカロリング家が王位を継ぎ、そしてその後からはロベ-ル1世の孫が
ユーグ・カペーとして西フランク王国の君主となります。
歴史的にはこの時からカロリングの西フランク王国は終わり、フランスという国が
登場することとなります。
ユーグ・カペーはフランスの初代国王になるわけです。

ではこの単純王と前の肥満王、同じカ-ル3世、シャルル3世ではありますが
どちらがカ-ル3世なのかはまた次回に。

220px-Georges_Rouget_(1783-1869)_-_Charles_III,_dit_le_simple,_roi_de_France_en_896_(879-929)
(シャルル単純王)

カール3世肥満王-最後のフランク王国統一皇帝

カ-ル3世とよばれている王様は実は2人います。
カール肥満王とシャルル単純王です。

東フランク王ルートヴィヒ2世(ルートヴィヒ敬虔王の息子)とその王后
エンマの息子シャルル肥満王(独語:Karl III der Dicke,仏語:Charles le Gros 
839年頃 - 888年)は、東フランク王国の国王そして、西フランク王国国王も兼ね、
シャルルマ-ニュ以来のフランク王国の統合を果たし西ローマ皇帝となります。
その3つの在位の期間は881年から887年までとわずか6年という短い在位では
ありましたが、歴史的には彼が最後にフランク王国の統一を果たしたフランク王国
の国王(つまりロ-マ皇帝)であります。

もう一人のカ-ルはやはりフランク王ルイ2世吃音王(シャルル禿頭王の息子で、
ルートヴィヒ敬虔王にとっては孫にあたる)と、その2人目の妻アデライ-ドとの間
に生まれたシャルル単純王(独語:Karl III. der Einfältige,仏語:Charles le simple
879年- 929年)です。
彼が生まれる半年前に父王ルイ2世は逝去、2人の異母兄(ルイ3世とカルロマン)が
共同で王位を継いでいたものの、こちらも早逝したことによって東フランク王国のカール
肥満王が西フランク王を兼務して、シャルルはカール肥満王に後見されることとなります。
その時シャルルはわずか5歳、一方カールは45歳でした。
東フランク王のカ-ル肥満王は、このおかげで一時的に西フランクの王位も継ぎ、
カルロマンから相続していた中部フランク王国(ルートヴィヒ敬虔王の長男ロタ-ルが継承。
現在のイタリアの上半分、プロヴァンス、ブルゴ-ニュ、西アウストラシアにあたる地域。
ちなみにアウストラシアとはフランス東部とドイツ西部、そしてベルギ-、オランダ、ルクセン
ブルグのあたり)のイタリア王でもあったため、肥満王なんて変な呼び名がつけられているにも
かかわらず、カール大帝以来、西ヨ-ロッパほぼ全土の王位を手中に収めた最後の
ロ-マ皇帝でもあったわけです。

フランク王国を実質的には再統一(884年-887年)した肥満王ではありながら、
その当時大問題だったバイキングの来襲で無能さをさらけだし、ノルマン人・サラセン人
・マジャ-ル人との戦いにてパリを護った英雄ロベ-ル家のパリ伯ウ-ド(ヴァイキングと
の戦いの勇者ロベ-ル豪胆公の息子)に、888年に王位を奪われます。
カロリング家以外の、はじめて世襲ではない王が誕生しますが、カール肥満王同様、
シャルル単純王が成年に達するまでの後見人としての一時的な王位でした。
当時まだカロリングの血筋のほうが強かったのでしょう。
最終的にはシャルル単純王を担ぐ一族や、シャルル単純王との3年わたる争いを経て、
西フランク国王位をシャルルに引渡し、898年に没します。

しかしながら、このウ-ドの弟ロベ-ル1世の一人息子ユーグこそ、後のフランス
王家のカペ-朝最初の王で、フランス王朝のヴァロア家もブルボン家もカペ-朝の
傍流の出で血統的には同じ一族ということで、800年以上のフランスの王権を保つ
こととなるので、最終的には彼の業績は実ることになりわけですが、それまでまだ
40年近くの歳月を待つ必要があります。

長くなったので、カ-ル3世という名前のもうひとりのシャルル単純王の
話はまた次回に持ち越しです。
karl 3
(カール肥満王  もう少しカッコ良く修正することはできなかったんですかね。。)

西ロ-マ帝国皇帝カ-ル2世にして西フランク国王シャルル2世

神聖ロ-マ帝国カ-ル5世、カ-ル4世が出てきたら、
カール1世から3世とは誰のことなのかちょっと気になってきませんか?

カ-ル1世とはもちろんシャルルマ-ニュことカ-ル大帝の
ことですが、ではカール2世とはいったい誰なのでしょう。

カ-ル大帝の息子で、最後のフランク国王にあたる
ルートヴィヒ1世敬虔 王には3人の息子がいまして、
フランク王国は当初その3人によって、中部、東西フランク王国に
3分割される予定でした。
ところが第2妃ユーディットとの間に末弟カ-ルが誕生したことによって
カールにも領土を与えることを後から決定したため、深刻な争いが
巻き起こります。
上の兄弟は自分たちのものになるはずだった領土が削減されたことに
よって不満を募らせ、832年に3人で結託して父敬虔王に氾濫を企て、
なんと敬虔王から帝位を奪い取ってしまうのです。
ですが今度は3人が仲違いを起こし、2年後には敬虔王は王位に
返り咲き、それから数年後に次男ピピンが死去して、このお家騒動は
終結するどころか、ますます激化していくことになります。

840年には敬虔王もついに薨去、ここに来て、王国全土の支配を目論む長兄
ロタ-ルにルートヴィヒとカールが対抗して同盟を結び、ロタール軍を撃破。
842年には、例のドイツ語・フランス語でそれぞれ宣誓したという
ストラスブールの誓約を発布し、翌年843年8月10日に
ルートヴィヒとカールはヴェルダンにおいて、
王国を3分割する案をロタールに呑ませます。
これが有名なヴェルダン条約です。

このヴェルダン条約によってカロリング帝国 はシャルル2世
(カールの仏語)の西フランク王国、ルートヴィヒ(ちなみに仏語ならルイ)
2世の東フランク王国そしてロタール1世の中部フランク王国
(イタリア、ロタリンギア、プロヴァンス)に分裂。
map843.jpg
(オレンジ:西フランク 薄緑:中部フランク  濃い緑:東フランク)

ロタール1世のローマ皇帝としての帝位は保たれたものの東西
両フランク王国に対する宗主権は失われ、統一フランク王国は事実上消滅。
そしてそのロタール1世が没すると、870年のメルセン条約によって
中部フランク王国は分割されプロヴァンスは西フランク領、
ロタリンギアは東フランク領になり、皇帝ロドヴィコ2世(ロタール1世の
長男)にはイタリアと西ローマ皇帝の称号のみが与えられ、
ここに現在のフランス、ドイツ、イタリアの原型が誕生します。

シャルルは皇帝ロドヴィコ2世がイスラム軍と戦争で忙しい最中に、
ロタールの遺領であるロタリンギア(現在のロレーヌ)を奪ったり、
その皇帝ロドヴィコ2世が後継者なしに崩御した際には、
ロドヴィコ2世が後見人と定めていた東フランク王ルートヴィヒ2世を
教皇の支持を取り付けることで破り、イタリア王国および、
なんとローマ皇帝位までも手中に収めてしまうのです。

そして初代西フランク国王シャルル2世にして、西ロ-マ帝国皇帝
カール2世の誕生です。
彼はシャルル禿頭(とくとう)王と呼ばれました。
この方の禿頭(はげ頭)という呼び名から、えっ禿げてたの? と
誰もが思うはずですが、彼がはげていたという史実ははっきりとは
残っていないようで、真意のほどはわかりませんが、ただ毛深い人では
あったという説も。しかしながらそれも確かな史実ではないそうで、
ただの皮肉でそう呼ばれていたのではないか、という説もあるそうです。
300px-Charles_the_Bald_(823-877).jpg
この肖像画で見る限りではなかなかイケメンですよね。
でもこの絵は後世に描かれたのでしょうから、まったくあてに
ならないとは思いますが。。。
220px-Couronnement_dun_prince_-_Sacramentaire_de_Charles_le_Chauve_Lat1141_f2v.jpg
こちらの絵では真ん中のお方が、カール2世で、2人の教皇様に
囲まれています。こちらの方は当時に描かれたものでしょうね。
(独:Karl der Kahle 仏:Charles II le Chauve)

823年6月13日、フランクフルト・アム・マインで生まれ、
54歳の生涯でした。


では次回は、引き続き西ローマ皇帝カ-ル3世へと続きます。

神聖ロ-マ帝国皇帝カ-ル4世にしてボヘミア王カレル1世

カ-ル大帝、カール5世と続いたので、今回はもう一人の
カ-ル皇帝、ボヘミア王カレル1世にして、
1355年には神聖ローマ皇帝として即位した
カ-ル4世についてです。
200px-Die_deutschen_Kaiser_Karl_IV.jpg
まずカール4世と言えば、神聖ローマ帝国内に
初めて大学を創立したことで有名ですね。

12世紀にはイタリアにはヨーロッパ最古のボローニャ大学が、
フランスにはパリ大学、イギリスにはオックスフォ-ド、
ケンブリッジまでも創立され、西欧各地にいくつか大学が
できはじめていたというのに、ライン川の東、神聖ロ-マ
帝国の地域にはまだ一つもなく、ドイツ人の学生は遠路パリや
ボロ-ニャまでいく必要があったそうで、プラハを「東のパリ」
たらしめたいというパリ育ちのカ-ル皇帝の構想のもと、
1348年に設立されたのがプラハ・カレル大学でした。
(設立者が神聖ローマ皇帝であるため「ドイツ語圏最古の
大学」と言われています。)

カ-ル4世は、ルクセンブルグ家出身の皇帝でした。
ルクセンブルク家はドイツ神聖ローマ帝国辺境の
一諸侯であるルクセンブルクの伯爵家であり、
ドイツ諸侯であると同時にフランス王の封臣でもあり、
地理的なことからもフランス語を母語とした一族でもありました。
現在のルクセンブルグにある、ルクセンブルク城
を本拠地に定めたアルデンヌ伯ジークフリート の子孫が、
11世紀にルクセンブルク伯の位を神聖ローマ皇帝から与えられ、
1308年のハインリヒ7世のドイツ王選出から1437年の
ジギスムントの死まで、ルクセンブルク家からは
4人のドイツ王および神聖ローマ皇帝を輩出することとなります。

そのハインリッヒ7世の息子ヨハンがボヘミアと
ポーランドの王ヴァーツラフ3世の妹エリシュカの
夫に迎えられ、ヨハンは1310年にボヘミア王ヤンと
して即位、その2人の間に生まれたのが、このカール4世
(幼いころの名はヴァーツラフ)だったのです。
Karte_Boehmens_Karl_IV.jpg
(肌色がカール4世の時代のルクセンブルグ家の領地)

ルクセンブルク家とプシェミスル家の血を引く
チェコ人として生まれたカールでしたが、政治に
かかわる父と母の確執のため、7歳から14歳までの
間はパリの宮廷に送られて、カペー朝最後の王となる
フランス王シャルル4世のもと教育されます。
王妃マリー・ド・リュクサンブールが父ヨハンの
妹だった縁とのことで、後にこの代父であるシャルル4世
の名をとってヴァーツラフからシャルル(ドイツ語で
カール、チェコ語でカレル)と改名したのだそうです。
パリの宮廷では後の教皇クレメンス6世(当時は
フランスの貴族ピエール・ロジェという名)が教師で
非常に高いゆきとどいた教育を受けさせてもらった上、
パリ大学にて学問を修めた彼は、当時の君主の中でも
屈指の教養ある君主として知られていたそうです。
当時の共用語であったラテン語にて自伝を書き、
チェコ語、フランス語、ドイツ語、イタリア語を自由に
あやつる複数語を駆使する教養人であり、神学と法学には
生涯にわたって興味を持ち続け、該博な古典の知識を有していたカール4世では
ありましたが、生活はいたって質素だったとか。

また彼は歴代の皇帝とは違ってイタリア獲得に情熱を注ぐ
ことよりも、むしろボヘミア王国の地位向上と皇帝の
地位確立に生涯をささげました。

彼の有名な業績のひとつである「金印勅書」により、
ボヘミア王は神聖ローマ皇帝を選出する7人の選帝侯の
一人という地位を法的に獲得することになります。
(7人の選帝侯ーマインツ大司教、ケルン大司教、トリーア大司教、
ライン宮中伯、ボヘミア王、ザクセン公、ブランデンブルク辺境伯)

実は中世を通じて国王選挙には、しばしば教皇や
のちには外部の王権が介入することがあったのですが、
この金印勅書を発して、国王選挙に参与する選帝侯の
地位を固定し、その世襲を明確化した上で、選挙によって
選ばれた国王がただちに皇帝としての権力を得ると
定めることで、皇帝権の自律性を高めたのです。
選挙結果は教皇の承認を必要としないという、当時の
ヨ-ロッパでは非常に大きな意味を持った勅書でした。
(大学創立許可も当時は教会の特権だったので、
プラハ大学に皇帝自ら大学を設立したのこともまた、
皇帝の権威を教皇から引き離した政策のひとつでした。)

「金印勅書」は、最初の「全ドイツ的憲法」とも言われていて
神聖ローマ皇帝の選挙規定であると同時に帝国議会(諸侯会議)
の規則であり、さらに選帝侯の領邦(ラント)主権を認めたもので
あったので、以後のドイツの分権国家としての枠組みが作られる
ことになります。

他には「ハンザ同盟」「シュヴァーベン都市同盟」という
2つの都市同盟承認をしたことにより、ドイツ都市の経済向上を
促進させ(ドイツ諸侯からは反発を受けますが)、
自分はチェコ人という意識が強かった彼は、後に
「ボヘミアの父」とも呼ばれるほど、彼の父ヤンが当時
辺境の地と嫌ったボヘミア王国の整備に、心を尽くします。

自負の念も強かった彼は、あちこちに自らの名を冠したお城
を作り(カレルシュテイン城など)、他には世界的な温泉地として
カールスバート、またプラハの町を一望できる観光名所の
カレル橋も有名です。
karle.jpg
(ヴルタヴァ川に架かる美しいプラハのカレル橋)

また1355年にミラノでイタリア王、56年にローマで
皇帝としての戴冠式を挙げ、65年にはアルルでブルグンド王
に戴冠して、「ドイツ・イタリア・ブルグンド三国の国王戴冠と
神聖ローマ皇帝としての戴冠をすべて果たした最後の皇帝」でも
あったという彼はまた"文人皇帝"、"ベーメン(ボヘミア)の父"と称され
カール4世の治世において、首都プラハは中・東欧通商網の中核を
なして文化的にも繁栄し、「黄金のプラハ」と称されるほどであったそうです。

ルクセンルグ家の生涯のライバルだった、ヴィッテルスバッハ家と
ハプスブルク家でしたが、彼の死とともにルクセンブルグ家も彼の子供の代で衰退し、
後にボヘミア王国も神聖ローマ皇帝位もルクセンブルク家の手から離れてしまうことに
なります。そしてそのいずれも婚姻関係からカール4世がライバルとみなした
ハプスブルク家の手に収まり、カール4世の行動は1438年よりはじまる
「ハプスブルク帝国」(ハプスブルク家による帝位の世襲化)を準備することと
なってしまうという皮肉な結末になったのは、もし彼が存命中であれば
本当にさぞや無念だったことでしょうね。。。

4回結婚して、62歳の生涯でした。
300px-Karl_Fourth_Bohemia_Anna_Schweidnitz.jpg
(3人目の王妃アンナ・シフィドニツカとカール4世)

フランク王国の言語ー古フランク語とドイツ語・フランス語の関係

神聖ロ-マ帝国皇帝カ-ル5世が「余は神にはスペイン語で、ご婦人には
イタリア語で、男にはフランス語で、馬にはドイツ語で話しかける。」という
逸話が残っているくらいなので、彼が生まれた1500年には、既に明確に
人々に違う言語であると認識されていたドイツ語やフランス語ではありますが、
カール大帝(742年から814年)の頃にフランク王国で話されていたと言われる、
古フランク語(ドイツ語: Altfränkisch、フランス語: Vieux-francique 英語:
Old Frankish オランダ語: Oudfrankisch)とは、では一体どんな言語だったの
でしょうか。

古フランク語そもそもは西ゲルマン語(西ゲルマン語群の代表的な三言語は
英語、オランダ語、ドイツ語)に属しているそうで、古フランク語とはつまり、
当時のフランク王国の今で言うオランダ・ベルギ-の地域で話されていた
低地ドイツ語、つまり現代のオランダ語になったもともとの言語だったそうです。
フランク族(Frankとは自由人のこと)がもともとはあるゲルマン人部族から来て
いることを考えれば、古フランク語とはつまりは今で言うドイツ語の元だったの
かと思えば、オランダ語がより近いとは驚きでした。

またフランス人の「french」という言葉自体が「 Frank(フランク人)」からの
名前であることを考えれば、フランス人もフランク族だったのでは? という
疑問がわきますが、この「french」は地名(現在はベルギ-やオランダの
一部のガリア・ベルギカという地域)ぼ土地に住んでいた人達の総称であり、
「フランス人」はもともと「ケルト人、ラテン人(ローマ人)及びチュートン人
(当時のドイツ人)の混血」という説があります。
(ただそうは言うもののフランク人から21世紀のフランス人へは直接の
血統のつながりを見出すことはほとんど不可能だそうですが)

ではユリウス・シーザーで有名な『ガリア戦記』のガリアや、でまた現代の
フランス人が、ガリア人を自分たちのルーツ・祖先として意識して、アフリカ系
黒人やアラブ移民系フランス人達に対して、自分たちフランス出身の白人を
「ゴーロワ(Gaulois)」つまり「ガリア人」と呼び分けることがある、というその
「ガリア人」とはなんだったかといえば、古代ローマ人にとっては、「ケルト人」と
「ガリア人」は同義語であったそうで、というのも、もともと「ガリア」と呼ばれて
いたフランスの地には、ガリア人と呼ばれるケルト民族が住んでいたからなの
だとのこと。ただ単にガリア地域に居住してガリア語またはゴール語を話した
ケルト系の部族が「ガリア人」と言われたのだそうです。

…と、フランク語からずいぶん話がずれてしまったので、また話を言語のことに
戻しますが、そういうわけでフランス語とは、ラテン語以外に、ローマ以前の
ガリアで用いられていたケルト語、ゲルマン系の古フランク語、そしてノルマン語
の影響を受けている言語なのだそうです。

フランス語はこんな風に
ラテン語→ロマンス語(オイル語系)→古フランス語→中期フランス語→フランス語

ドイツ語はこんな風に発展したそうですが
西ゲルマン祖語→古ドイツ語(それぞれ高地・中部・低地の3つの方言がある)→中ドイツ語→新ドイツ語

380px-Fränkisches_Sprachgebiet
(黄色:低古ドイツ語、緑:中古ドイツ語、青:高古ドイツ語が使用されていた地域)


とまあ、こんな感じでドイツ語とフランス語は、もとも違う言語から、
その上独自に発展していったものの、フランク王国の勢力の強さで、
当時かなりのフランク語の影響をフランス語も受けたそうです。

というのもオランダ語になった低ドイツ語だけではなく、今のドイツ語の
もとになった古高ドイツ語や古中ドイツ語もかなり話されていたわけで、
あまりに広大な王国だったため、1つの言語を使うなんてことは無理で、
みなそれぞれが方言で話していたと考えるのが普通でしょう。

フランク語もラテン語と互いに影響しあっているはずなので、ゲルマン祖語
から2000年も前に枝分けれした英語でさえもドイツ語や、ラテン語系フランス語
の影響を受けながら発展していったようですが、そんなことを色々考えると面白いですね。

なのでドイツ語を勉強していると、ドイツ語はゲルマン系、フランス語はラテン系、
なのにどうして似ているんだろうと感じるときがあるのはこういった理由からなの
かもしれません。
ロ-マ帝国のおかげで、フランク王国の長年の公式言語はラテン語であったわけ
ですから、ラテン語の影響が大きいのは当然ですが、フランク語の影響も大きいとは
少し驚かされました。

ただ、カ-ル大帝の次の世代はどんな言語を使っていたのかといえば、
息子ルイ敬虔王の子供であり、カール大帝の孫にあたる2人が、
長兄ロタール1世に対抗するために協力して宣誓した、「ストラスブールの誓い」
(仏: les serments de Strasbourg、独: die Straßburger Eide)では、
東フランク国王ル-ドヴィヒ2世は古高ドイツ語(チュートン語と言った)にて、
西フランク国王シャルル2世禿頭王は古フランス語(まだロマンス語だった)
にてお互いに相手国の言語を用いて兵の前で宣言し、両国の兵はそれぞれ
自国の言語で誓いを行ったという記録が残っているとのこと。
(記録ではそれらの2言語のほか、ラテン語でも残っています。)

842年のことですが、その時にはフランク国内でこの2つの言語 ドイツ語と
フランス語はラテン語並みに強くなってきていたということでしょうか。
つまりフランク王国とは言っても、古フランクよりもその頃は実は古いドイツ語や
ロマンス語を理解できる人々が多かった、ということの証明なのかもしれません。

フランク族の言葉だった古フランク語が、ラテン語はじめ英語やフランス語に
影響を与えことはあっても、フランク王国の隅々の方言まで全く変えてしまえる
ほどには影響力はなかったというのもまた違う真実で興味深いです。
なにしろ広大すぎた王国でした。

こうやって色々想像していくと、この時代を実際にのぞきに行けたらどんなに
素敵だろうと思ったりします。
言葉から見た歴史もヨ-ロッパには興味深いものがありますよね。


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