プロフィ-ル

マルゴママ

Author:マルゴママ
ドイツ北西部の片田舎でかれこれもう16年生活しています。ドイツ人の夫と、3人息子、そして一人娘(?!)の猫マルゴと共に、ドイツの子供の生活、ドイツサッカ-をはじめ、テニスやブレイクダンス、またドイツの村での生活風景を気のむくまま綴っていきたいと思っています。
 

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カール大帝 ― シャルルマ-ニュ ―

200px-Dürer_karl_der_grosse

西ヨ-ロッパ史最大のフランク王国を統一した、西洋史上最も重要な人物であり、
ヨーロッパの父とも呼ばれているカール大帝が、フランス語ではシャルルマーニュ
(Charlemagne)、ドイツ語ではカール・デア・グローセ(ドイツ語Karl der Große)であり、
また英語ではフランス語綴りを英語読みでシャーレメイン、または英訳してチャールズ・
ザ・グレート(Charles the Great)、そしてイタリア語でカルロ・マーニョ(Carlo Magno)、
ラテン語ではカロルス・マグヌス(Carolus Magnus)と各国言語でそれぞれ呼ばれているのは、
このフランク王国がフランス、ドイツ、イタリアなど、現在の欧州の心臓部を形作る国々の礎と
なった国々を含む西ヨ-ロッパを最初に統一した王国だったからです。


フランク王国(ドイツ語 Fränkisches Reich、フランス語 Royaumes francs、英語Frankish Empire、
イタリア語Regno franco)最初の王朝メロビィング家の実力者であったエリスタル伯ピピン
(カール大帝の曽祖父で通称 中ピピン―ちなみに中ピピンの祖父は大ピピンと呼ばれて
います)の彼の庶子カ-ル・マルテルが頭角をあらわし、720年に全フランク王国の宮宰と
なり、史上有名なトゥ-ル・ポアティエの戦いでイスラム教徒を撃退します。

政治手腕に長けていた息子ピピン3世(小ピピン)が、当時西ローマ帝国が滅びた後、後ろ盾
を失い苦境に立たされていたローマ教会の教皇ザカリアスと手を結び、751年にメロビィング朝
からフランク王国の国王の座を奪うことに成功し、ここにカロリング朝が誕生します。(この王朝
の名前はカール大帝の名をとってあとにカロリング朝とよばれことになったようです。)

786年にこの父ピピンが亡くなった時、カ-ルは26歳でしたが、弟カ-ルマンと共に王国を
分割統治することになります。
カ-ルは水泳や狩猟をよくし、たぐいまれな馬の乗り手であったそうで、子供のころから
厳しい生活を送って身体の鍛錬にはげみ、父王ピピンの実践にも参加して、父に対しては
深い敬意を払い、母に対してはひたすら素直な少年だったそうです。

というのも母ベルトは通称「大足のベルト」と呼ばれていますが、非常に才媛でいいお母さん
だったようで、父からは「王者の道を」、母からは「宮中のこまごましたことを」学んだ、と
言い伝えられているそうです。
分割した領土(カールは王国の主要部分)の問題で弟カ-ルマンとの対立も母ベルトが
間に入って調整するなどしたようです。

カ-ルは生涯5人の妻を持ち、庶子にいたっては20人前後だそうですが、
フランク王国長年の敵であったランゴバルト王国(ゲルマン系のランゴバルド族に
よる王国で現在のイタリアにあたる地域)の王女とカールとの政略結婚を画策したのも
母ベルトだったそうですが、母の望んだ平和的解決にはならず、
最終的にはこの王国もカールに滅ばされ、征服されることとなります。
ランゴバルト
(薄いブル-がロンバルド王国《ランゴバルドのイタリア語》で現在のイタリアのほぼ領域)

弟カールマンが771年に早世し、それ以降の43年間、カールは70歳すぎで死去する
まで単独で王国を統治する間、カールの生涯の大半は征服の旅で占められていて、
46年間の治世のあいだに53回もの軍事遠征をおこなっていたので、
首都をパリからア-ヘンに変えたものの、キエルジ-からメッス、フランクスルト、ランス、
バ-デンボルンと居所をかえたそうです。
大帝カール本人だけではなく、宮廷そのものが、1箇所に留まらずに常に国内を
移動していたのは、絶えず領内を移動して、伯との接触を確保する必要があったからであり
また、道路の整備も不充分で、各地から食糧などの生活物資を宮廷まで運ぶ輸送手段が
なかったためでもあったということで、そんな逸話からも当時の人々の生活に思いを
はせることができます。

ランゴバルト王国を皮切りに、長期に渡った誇り高きザクセン人の英雄ヴィドキントとの
戦い(772年から802年)の他に、スペインのイスラム教徒、バスク人(フランスの
「ローランの歌」で有名なロンスヴァ-の戦い。カール大帝の甥といわれる、
ローランが主人公。でもスペイン側からは「ベルナルド・デル・カルピオの歌」と
スペイン側を英雄にした物語があります)、バイエルン公国、アヴァ-ル人、
ノルマン人等を撃退し、800年にはついに教皇レオ3世より、クリスマス当日、
ローマのサン・ピエトロ寺院にて、西ローマの皇帝カール大帝が誕生します。
しかしながら、この儀式の際、彼自身は不満だったそうです。

というのは儀式がロ-マの古式に則する方法で執り行われなかったということ
(民衆の歓声をあげるのと加冠される順番が逆だった)なのですが、当時の文明の
中心はコンスタンチノ-ブルを首都とする東ロ-マ帝国であり、誰の目にも西ヨーロッパは
片田舎の王国に過ぎなかったのです。(今の感覚で考えればびっくりですよね。)

そんなことを儀式で証明させられたようで、誇り高いカ-ル大帝はさぞや腹立だしく
思ったことでしょうが、4世紀から6世紀にかけた、ゲルマン民族大移動のせいで、
西ヨーロッパはほぼ滅亡、東ロ-マ帝国だけが法制上唯一、ローマ帝国の文明
スタイルを引き継いでいた状態だったので、西ヨ-ロッパが格下に見られるのは、
当時の世相ではどうしても仕方のないことでした。
東欧と西欧の立場、繁栄ぶりが逆転するまでは、12世紀までまたなければなりません。

人生の大半を遠征に使い、戦いに明け暮れ、カール大帝の領土はイベリア半島とイタリア半島
南部を除く西ヨーロッパ大陸部のほぼ全域(今日のドイツ・フランス・イタリア・スイス・オランダ・
ベルギー・ルクセンブルクに相当)に及び、この地域を統一支配した空前絶後の大国家を
支配したカ-ルでしたが、生活はつつましく、飲酒を好まなかったため、彼の宮廷では宴会も
ほとんどひらかれなかったそうです。
350px-Empire_carolingien_768-811.jpg
カール時代のフランク王国(青がカール即位時のフランク王国、赤橙がカールの
獲得領、黄橙がカールの勢力範囲、濃赤はローマ教皇領)

また当時の国際語だったラテン語は話しましたが読む書きは苦手で、"KAROLUS"の
7文字を組み合わせたものが彼の署名でしたが、彼自身では中央の菱形だけしか
書いていなかったとか。
200px-Autograf,_Karl_den_store,_Nordisk_familjebok
(有名な彼の署名)

ラテン語とギリシャ語は勉強のかいあって話すことはできるようになったそうですが、
では彼の母国語はといえば、古フランク語というものだったそうです。
フランク人はもともと現在のオランダやフランドルのあたりに住んでいた
ゲルマン民族で、南に進出してフランク王国を建てたそうで、カール大帝は
現在のベルギ-のリエ-ジュ近郊で生まれたといわれています。
この古フランク語というのは、古いドイツ語のようなものと考えるとわかりやすい
かもしれません。古フランク語は後に英語やフランス語はじめ、なんとラテン語に
まで大きい影響を与えたそうです。当時のフランク王国はいかんせんイベリア半島と
イタリア半島南部を除く西ヨーロッパ大陸部のほぼ全域を統一支配した大国家だった
ことを考えればその影響力の大きさは相当なものだったことでしょう。

以上、今回は憧れのカール大帝についてでした。

神聖ロ-マ帝国皇帝カ-ル5世にしてスペイン国王カルロス1世

美公フィリップと狂女ファナの婚姻は、ハブスブルグ家にとてつもない領土を支配させる結果になりました。

神聖ロ-マ帝国皇帝にして、スペイン国王でもあるカ-ル5世(スペインではカルロス1世)は、当時から各国の王族同士が婚姻を
結んでいたヨ-ロッパ王室の中でも、際立って高貴な血統でした。
母方の両親はスペインを統一させた偉大なるイザベル女王と、アラゴンのフェルディナンド、父方の両親はブルグント公女マリ-と
神聖ロ-マ帝国のマクシミリアン1世。
彼がスペイン国王に就任した頃は大航海時代の真っ最中、「太陽の沈まない国」(欧州から新大陸、アジアはフィリピンまで)という
世界帝国を築き上げました。

(若かりし頃のカ-ル5世)

ちなみに彼の敬称をすべて書くと、
カール、神の恩寵による、神聖ローマ皇帝、永遠の尊厳者、ドイツ王、イタリア王、全スペインの王及びカスティーリャ王、アラゴン王、レオン王、ナバラ王、グレナダ王、トレド王、バレンシア王、ガリシア王、マヨルカ王、セビーリャ王、コルドバ王、ムルシア王、
ハエン王、アルガルヴェ王、アルヘシラス王、ジブラルタル王、カナリア諸島の王、両シチリア及びサルデーニャ王、コルシカ王、エルサレム王、東インド、西インドの王、大洋と島々の君主、オーストリア大公、ブルゴーニュ公、ブラバント公、ロレーヌ公、
シュタイアーマルク公、ケルンテン公、カルニオラ公、リンブルク公、ルクセンブルク公、ヘルダーラント公、アテネ公、ネオパトラス公、ヴュルテンベルク公、アルザス辺境伯、シュヴァーベン公、アストゥリアス公、カタルーニャ公、フランドル伯、ハプスブルク伯、
チロル伯、ゴリツィア伯、バルセロナ伯、アルトワ伯、ブルゴーニュ自由伯、エノー、ホラント伯、ゼーラント伯、フェレット伯、キーブルク伯、ナミュール伯、ルシヨン伯、サルダーニャ伯、ズトフェン伯、神聖ローマ帝国の辺境伯、ブルガウ辺境伯、
オリスターノ辺境伯、ゴチアーノ辺境伯、フリジア・ヴェンド・ポルデノーネ・バスク・モリン・サラン・トリポリ・メヘレンの領主。

だということで周囲のお付き(本人ですら)は覚えるだけでも大変だったことでしょう。

また親戚には、母方の叔母がヘンリ-8世の最初の妻キャサリン、(ブラッドメアリ-で有名なイギリス女王メアリ-の実母)、父方の叔母はネーデルラント総督マルグリット、弟はオ-ストリア系ハブスブルグの祖となる
カール5世の次の神聖ローマ皇帝フェルディナンド1世(オーストリア大公にして、イタリア王、ボヘミア王ハンガリ-王でもある)であり、またこの2人の4人の姉妹はそれぞれ、フランス王室、デンマ-ク王室、ボヘミア王室、ポルトガル王室の妃という、華麗なる王家一族でありました。
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(馬上でのなんだか凛々しいカ-ル5世)
彼自身も曽祖父母の代まで遡ると、オーストリア、ポルトガル、フランス、イギリスの血筋が流れているため、祖父母が神聖ロ-マ帝国皇帝であり、ブルゴ-ニュ家で、その上スペインの王室の血筋であってもカ-ル5世はスペイン人、あるいはドイツ人、あるいはフランドル人、あるいはフランス人(ブルゴ-ニュはもとはフランスから独立した公国)であるとは言い切れないようです。カール5世自身は母国語はフランス語で、パリをこよなく愛し、フランス社交界でも「シャルル・カン」(Charles Quint)と、親しまれていました。
(現在のフランス語ならカール5世は「シャルル・サンキエ-ム」(Charles cinquième)なのに、なぜ「シャルル・カン」なのかといえば、Quint は中世フランス語では5世の意味だったそうで今でも彼の呼び名はフランス語で「シャルル・カン」のままですが、響きがとても素敵です)

彼が残したと言われている言葉に「余は神にはスペイン語で、ご婦人にはイタリア語で、男にはフランス語で、馬にはドイツ語で話しかける」というものがあるものの、得意だったフランス語とスペイン語(スペイン語は15歳くらいからスペインに移り住み覚えたよう)に比べ、ドイツ語とイタリア語(ついでにラテン語も)は不得意だったそうです。

そして彼は母方の従妹でポルトガルの王女イサベルと結婚するのですが、これまた非常に仲の良い皇帝夫妻であったそうです。
イサベルは知性と美貌で知られただけではなく、非常に優しい夫人でカ-ル5世に大変愛されますが、末子の出産の際、難産で命をおとしてしまいます。
ポルトガルの王女としての誇りを捨てさることができなかった彼女は、医師に自分の病状を診てもらうため体に触れられるのを断固拒否したとのことです。
その後カ-ル5世は再婚もせず、彼女のために死ぬまで喪服で過ごしたとのことで、なんだかとても素敵です。58歳の生涯を終えるまで、亡き妃を思い続けたということで、やはり亡き妃を思い続けた、祖父マクシミリアン1を彷彿させますが、この情の深さがハプスブルグ家の婚姻による成功の要因の一つだったのかもしれません。
お互いを思いやる優しさが兄弟間であらわれている逸話も残り、人柄の良さが偲ばれます。
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(美しいイサベル妃)
想像できないほどの高貴な家柄のハプウスブルグ家ではありますが、大抵どこの王室と結ばれても、夫婦仲良く、その結びつきで難関を乗り越え「戦争は他家に任せておけ、幸いなオ-ストリアよ、汝は結婚せよ」の言葉通り
婚姻による領土拡大を可能にしたハプスブルグ家の大成功の秘密は実はこんなところにあるのかもしれません。
そこがフランス王家とイギリス王家との決定的な違いであり、また500年たってもロマンチックな宮廷物語としても、私達の心を打つのかもしれませんね。
陰謀と策略が幅をきかせ、そしてそのための結婚とはっきりわかってしまう、フランスやイギリス王家では、何世代にも渡るハプスブルグ家のような夫婦間でのロマンスはあまり聞かないように思えますが、どうなんでしょうか。

そんなわけでカ-ル5世は、彼から遡ること700年前にヨーロッパ統合を果たしたカ-ル大帝以来のヨ-ロッパ概念の体言者でもあったわけですが、次回はそのカ-ル大帝について少し説明させていただきたいと思います。

ブルグント公国からスペイン王国へ―ファナとフィリップ

マリ-・ド・ブルゴ-ニュと、田舎皇帝のハプスブルグ家のマクシミリアンのロマンチックな結婚物語は、マリ-の遺児フィリップ美麗公がスペイン女王イザベルの娘ファナと結婚することによって、ヨ-ロッパ史上最強の名門王家ハプスブルグ家を生み出すことになります。

ファナの両親はかの有名なカスティーリャのイザベル1世(コロンブスで有名な)と、アラゴン王フェルディナンド2世(この2人の結婚に至る経緯のドラマチックさもマリ-とマクシミリアンの結婚並みですが夫婦仲も良く、そんなところも似た感じの2組の夫婦ですね)の次女で、兄のアストゥリアス公フアンはフィリップの妹マルグリット(マ ルガリータ)と結婚するという、二重政略結婚でした。
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(フィリップ美貌公)
その時の婚礼でのブルグント一行のあまりの洗練された豊かさ、煌(きら)びやかさに、当時敬虔なカトリック王家で、かなり地味だったスペイン王家は度肝を抜かれたようですが、それだけではなく美公という通称通り、狩りやトーナメント(槍試合)が得意で、話術も巧みな金髪碧眼の美しい姿にファナはすっかり魅了され、幸いに2人は愛し合い、2男4女をもうけることとなります。

でも母とは幼いときに死に別れ、容姿が美しいことや、ブルグント公国の後継者と幼い頃からちやほやされてきたフィリップは、ファナ一人では物足りず、浮気を繰り返し、敬虔なカトリック教徒で生真面目なファナはついに精神に異常をきたし、そんな矢先に
なんとフィリップが28歳という若さで急死してしまうのです。1506年のことでした。

夫を愛してやまなかったファナは夫の死を受け入れられず、彼の棺を抱えて3年間カスティ-リャの野をさまよい、毎日フィリップの棺を開けて、夫の遺体を確認することを日課としていたそうです。
そんなわけで彼女は「狂女ファナ」と後に言われ、父フェルナンド王の指図で荒野の修道院の高い塔に連れてこられ、そこに幽閉されたまま、その後46年間も生き延びます。

しかしながら、フィリップが父マクシミリアンにとって同じ娘のネーデルラント総督マルガレーテとは正反対で、政治手腕では「不肖の息子」であったのに対して、ファナは政治手腕では夫のフィリップより優れていた女王ではあったようです。
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(カスティーリャ女王にしてレオン女王であるファナ)

1504年に母イザベラ1世が死去したため、ファナがカスティーリャ王位を継承することになりました。
夫フィリップは勝手に「カスティーリャ王フェリペ1世」を名乗り、妻との共同統治を主張しましたが、議会では「王の配偶者」としか認められなかったため非常に不満に感じていたそうで、フィリップはさらに、スペインと敵対していたフランスに接近したり、フランドルの貴族たちにカスティーリャの土地を分け与えたりしたため、国内の貴族達を敵に回し、全く支持を失ってしまったのだそうですが、ファナは夫にメロメロではあっても、夫の愚行に頑として従わず、カスティーリャ貴族たちの支えになっていたのだそうです。

またファナにはこんな逸話が残されています。
は1506年フリシンゲン港より、カスティーリャへ帰路の際、カレー海峡付近で嵐に遭った折に、当時の習慣によって同乗させていた売春婦たちを積荷と共に海に流そうとした時の事、「足手まといを海に捨てなければいけないのならば、まずはこの女達を食い物にした殿方から始めましょう。それに彼女達を船に乗せた者どもも。もち ろんその点では公爵殿下(フィリップ)も言い訳は許されません。なぜなら今私たちは、悪事を働いた者であれば、それが王であろうと平民であろうと等しく罰 を下される方に慈悲を乞おうとしているのですから」

と言い放ったということであり、、「狂女」というのは偽りの事実 ―父フェルナンド2世がイサベルの死後は前女王の夫という立場でしかなく、カスティーリャの統治に関与できなかったために、ファナが正気をなくしていれば自分が後見人として統治できると考え、意図的に「ファナが狂った」という噂を流した―だったのでは、という説まであったりするそうです。

こんな波乱万丈の世代を超え、ブルグント家、ハプスブルグ家とスペイン王家のトラスタマラ家の政略結婚の結果は、ファナとフィリップの嫡男カ-ル5世(カルロス1世)の時代に大輪の花を咲かせ、全盛期を迎えることになります。

次回は私の大大好きな、このカ-ル5世の話で盛り上がりたいと思います。


(このファナの映画「狂女ファナ」は2004年にスペインで製作されておて、
私の是非いつか見てみたい映画の一つです。)


ブルゴ-ニュ(ブルグント)公国-マリ-姫とマクシミリアン

世界で一番美しい(?)と定評のあるフランス語より、あまり響きの美しくないフラマン語(オランダ語の方言)が、ベルギ-では良いイメ-ジだなんてとても信じられないでしょうけれど、ベルギ-のブリュッセルやブル-ジュあたりが、15世紀頃のヨ-ロッパでは強国ブルゴ-ニュ公国の中心だったかを知れば、それも納得できるかもしれません。

今でこそ大国ドイツ・フランス・イギリスに挟まれ、ルクセンブルグやオランダと共にベネルックスなどと愛称までつけられて、小国のイメ-ジそのままのベルギ-ですが、当時ブルゴ-ニュ家が支配していたブルゴ-ニュ公国は、シャルル突進公(1433年 - 1477年)の頃には、ブルゴ-ニュワインで有名なブルグンド(ブルゴ-ニュのドイツ語)地方だけではなく、当時欧州の経済的先進地域であったフランドル(現在のベルギ-やオランダ周辺)をまたぎ、フランス・ドイツの国境沿いまでの広大な土地を支配していました。
広大であるばかりでなく、豊かな土地、そして経済や文化の先進地域でもある領地を持ち、当時欧州ではとてつもなく非常に豊かな公国でもあったわけです。

ですからこの戦争好きなシャルル突進公(シャルル・テメレ-ル)の一人娘マリ-はフランス・イギリスの王室からも引く手あまた、欧州中の注目の的でした。
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(マリ-・ド・ブルゴ-ニュ)

そのマリ-の父・シャルル突進公がナンシ-の戦いで、44歳の若さで亡くなってしまい、大荒れになりそうな結婚争奪戦にて勝利を手に入れたのが、「中世最後の騎士」にして「近世最初の皇帝」と称されるハプスブルグ家のマクシミリアン1世でした。
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(マクシミリアン1世)

息子と結婚させるもくろみだったフランス王シャルル11世はそれは憤慨したことでしょうが、でもブルグントの絶世の美女だった姫君マリ-と、これまた当時、陰気な父・神聖ロ-マ帝国皇帝フリードリヒ3世に似ず、武道に秀でて心身ともにたくましく、明るく伸びやかに育ち、そして純粋な青年だった神聖ローマ帝国皇帝ハプスブルグ家の嫡男マクシミリアンは、今見てもお似合いのカップルです。

当時神聖ロ-マ帝国皇帝とは言っても、貧乏皇帝一家だったこのハブスブルグ家はフランス王シャルル11世に幽閉されていたマリ-を助け出すための資金がなく、マクシミリアンはそれは大変な思いでゲントのマリ-のもとまでたどり着きます。
当時、資産がないからこそ、神聖ロ-マ帝国皇帝に選出されていたのが、ハプスブルグ家だったとは以外に知られていない史実ではないでしょうか。
資産のある一族を皇帝に選出して、ひとつの家の力が強くなってしまうことを、当時神聖ロ-マ帝国(今のドイツあたり)は恐れていました。
この貧乏皇帝一族は、マリ-・ド・ブルゴ-ニュとの結婚によって、一気に名実共にヨ-ロッパ1の名家になっていくわけなんですが、それはこの2人の孫カ-ル5世(スペインではカルロス1世)の時代まで待たなければなりません。

ですが旅行資金のみならず、それどころかいつでも貧乏だった父フリードリヒ3世にしてみれば、マリ-姫との結婚だけでもきっと目が回りそうなくらいな大成功と思ったことでしょうね。

そしてもともとは政略結婚から始まった2人ですが、ゲントでマリ-を救出した話はまるで中世の騎士物語以上にロマンチックですし、結婚してからはお互いの言語(マリ-はフランス語とフラマン語、マクシミリアンはドイツ語)を教えあったり、共に馬で狩に出かけたりと、それは仲睦ましい夫婦だったということで本当にお似合いの素敵なカップルですよね。

マリ-が4人目の子供(次男フランソワは夭折)妊娠中に落という事故さえなければ、きっともっとたくさんの子供にも恵まれ、ブルュッセルやブル-ジュは今よりもっと大きな都市になっていたかもしれませんが2人の子供に恵まれ、幸せの絶頂に、25歳という若さで夭逝(ようせい)してしまったのは本当に残念なことでした。

マリ-・ド・ブルゴ-ニュは今でも父シャルル突進公の横で、そしてマクシミリアンの心臓も、マリーの墓に共に埋葬されて、ブル-ジュの聖母教会で眠っています。
今でもブルグントの人々の「我等が姫君」マリ-・ド・ブルゴ-ニュのお話でした。
220px-Grafmarg.jpg

ベルギ-について

主人と知り合ったかれこれ20年前の頃、主人の実家の
ブリュッセルに行くとフランス語が話せて(下手でも一応仏文出身)
それは嬉しかったものでした。
ただブリュッセルではフランス語でOKでも
ブル-ジュのお店でフランス語で注文すると主人に
「ここはフラマンの地域、フランス語は失礼です」と
文句を言われるようになったのが、この7年くらいなんですが
北部のオランダ語圏(フラマン系)と南部のフランス語圏(ワロン系)でもともと
対立があるのは知っていたので、単純に
「ブル-ジュはブルュッセルと違ってフラマン語(オランダ語の方言)の
地域だからね」くらいにしか思っていませんでした。

でも最近実は違う視点のせいなのでは、とふと感じました。
私の中ではフランス語はいつも最高に素敵な言葉と思っていたんですが
なんとここベルギ-ではフランス語を話すワロン系ベルギ-人は、
オランダ語を話すフラマン系のベルギ-人には
どうも格下に見られているようだ、と最近気がついたんです。


以下、Wikipedia引用


南北の経済格差

工業・サービス業が発達した北部のフランデレン地域と、石炭・鉄鋼業が
衰退した南部のワロン地域では失業率に2倍以上の開きがある
(後者の方が失業率が高い)。労働者の需給にギャップが生じても、
ワロン地域はフランス語以外話せない住民が多数であるため、
ワロン人がフランデレン地域で就労することが困難であり、失業率の
格差が縮まらない一因となっている。またブリュッセルは移民が多く、
低技能労働者が多いことから、失業率はやはり高い。

また、南北の経済格差も深刻で、フラマン系の裕福な北部と、
比較的貧しい南部という図式が定着している。
ベルギー建国時は、この図式は逆であり、南部のフランス語圏が
工業地帯として発展しており裕福で、北部が貧しかった。しかし、
今や北部のフラマン地域が裕福であり、北部が南部を見下している状態にある。



まさにその通りで、今やベルギ-で裕福な人たちはフラマン人で
オランダ語、フランス語はもとより、英語も話すことができ、
ドイツ語も数時間話すうちに理解できるという、
信じられないほど高い語学の才能があるのは彼らフラマン人で
それは教育水準の高さから来ているそうです。
一方、生活に追われ、失業率も高いワロン人はあいかわらず
フランス語しかしゃべることができない、という図式なのだそうです。

そのせいかベルギ-ではフランス系のスーパ-マーケット
「Carrefour(カルフ-ル)」でさえも、フラマン系の「Delhaise(デレイズ)」
よりも格下に見られているようで、「あそこは安物ばかり」と
うちの義母は忌み嫌っています。

ドイツ人一家でありながら、3歳からベルギ-で育った主人は
その空気をいつも感じながら育ったのでしょうから、
ベルギ-ではフランス語で話さないほうがいいと、なんとなく
思うところがあるのかもしれないですね。

それでオランダ語のできない私が今ではどうやってブル-ジュで
注文するかと言えば、もう最近では開き直ってドイツ語です。

主人に
「ここでは失礼だからフランス語はやめて下さい」と言われ、英語で注文したら
「なんで英語にするんですか、旅行者じゃあるまいし」と言われ、ドイツ語にしたら
「なんでドイツ語、ここはベルギ-ですよ!!」と怒られましたが、一応ドイツ語も
ベルギ-の公用語(フラマン語、フランス語、ドイツ語でブルュッセルの駅の
看板などは少なくともこの3ヶ国語で書かれています)だし
もう最近開き直りです。
ベルギ-人は皆さん語学の天才なんで、ドイツ語でもなんとか通じてます。
フラマン語は難しすぎて今更習得は不可能ですしね。

で、語学の天才ばかりの国で育ったせいか、主人にとって7ヶ国語目だった
日本語は結構簡単だったようで、家ではあいかわらず日本語でしゃべっている
楽ちんでほとんど努力していない私なんですが、
そんなわけで主人ばかり語学に磨きがかかり、ドイツに住んでいても
ドイツ語はヘタッピ、仏文出身でもフランス語はボロボロで、小学校1年生から
学校の授業で英語を習っていたのにもかかわらず(当時では珍しいことでした)
英語もとんちんかんな情けない私です。


ブル-ジュの休日

週末は近場のブル-ジュへ
140802 062
ベルギ-と言えば有名なのがベルギ-ビ-ルですが
クリ-クというさくらんぼのビ-ルがおいしいのですが
今回は赤いビ-ルという名前のキイチゴビ-ルなんかも
飲んでみました。
暑い夏にはやはりビールがぴったりですね。
140802 026
おいしそうなケ-キ屋さんに
140802 021
おいしそうなソーセ-ジ屋さん
140802 024
おいしそうなチ-ズ屋さん
140802 027
結婚式も町の市庁舎であり
140802 038
この像は本物ではなく、人が演じているので
時々突如動きびっくりさせてくれます。
140802 048
あいかわらずの馬車と
140802 076
運河の白鳥も美しかったですが
140802 008
なんといってもこの散歩道は絵のようでした。
140802 012
駅から教会の方の町に抜けていく道なので
ブル-ジュを訪れた際には是非歩いてみてください、
お勧めです。

お手軽週末休暇でした。

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