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マルゴママ

Author:マルゴママ
ドイツ北西部の片田舎でかれこれもう20年生活しています。
ドイツ人の夫と3人息子、そして一人娘(?!)の猫クレオとそして雄猫シザ-リオと共に、ドイツの子供の学校と大学生活、ドイツサッカ-もたまに、空手や他のスポーツ、またドイツの村での生活風景を気のむくまま綴っていきたいと思っています。
 


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リンブルグ公国について

それで前回のそのリンブルグ公国について自分なりに調べたことを他のサイトにまとめたんですが、今回それをこちらでもそのまま記載させてもらいますね!

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(緑の部分が昔のリンブルグ公国の地域)

その昔リンブルグ公爵の所領はリエージュ州北部から、現在のベルギー・オランダの両リンブルフ州、さらに現在のドイツのノルトライン=ヴェストファーレン州の一部にまたがっていた広大な地域だったということで、そのため今でもリンブルグという名前は、ベルギーとオランダにそれぞれその名前の州があり、ドイツにもリンブルク・アン・デア・ラーンという名前の町があるのだが、そういうわけでこの地域がリンブルグ公国に関係があったということが想像できる。

また今でもリンブルグという名前は、

1.発祥の地 リンブルグ村(リエージュ州・州都リエージュ フランス語のワロン地域)

2.リンブルグ州(ベルギーの1つの州・州都はハッセルト フラマン語のフランドル地方)

3.リンブルグ州(オランダの1つの州・州都はマーストリヒト)

4.リンブルク・アン・デア・ラーン(ドイツのヘッセン州の町で面積は45,15 km2、人口35,000人の町、州都はヴィースバーデン)

と、ベルギー、オランダ、ドイツにそれぞれ4つの違う地域や町や村に名前が残っているのだ。

もともとリンブルグ公爵家のリンブルグ城は、1020年頃にフレデリック2世が古い王室の領地バーレンのヴェーザー渓谷(発祥の地の近くの川)にリンブルフ城を、中世の要塞城として建てたのが最初なのだという。

その後、1280年の最後の公爵と1283年の相続人の死後にリンブルクの継承戦が勃発し、ウォーリンゲンの戦いにおいて、その勝者であるブラバント公爵がリンブルグ公爵の称号を獲得、またブルゴ-ニュ(ブルグンド)公国、その後はドイツ神聖ロ-マ帝国領に属し、ゲルデルン公国、ユーリヒ公国、リエージュ司教領、ケルン大司教領によって分割統治されていた一帯でもあった。


また1549年ドイツ神聖ロ-マ皇帝にしてスペイン王のカール5世によって、ネーデルラント17州がハプスブルク家に統合され、ナポレオン時代にはフランス帝国に併合された後、またその直後のウィーン会議にて1815年にはネーデルラント連合王国領となる。

ところが1830年に今度はネーデルラント南部諸州がベルギーとして独立すると、リンブルグはベルギーの支配下に置かれるのだが、それからまた1839年にはリンブルグの東側半分がオランダ領、西側半分がベルギー領として分割されることになるという大変複雑な公国でもあった。

実はリンブルグ公国を代表する街でもあるマーストリヒトとリエージュはオランダ・ベルギーという違う国でありながら良く似た街並みで、なんとなく不思議に思っていたのだが今やっと私にもその理由がはっきりとわかった。

しかし何度も色々な国に支配された後、やっとオランダ・ベルギーに分割されて現在の状態になったものの、オランダ側のリンブルフは、1866年まで「リンブルク公国」の名でドイツ連邦に属していて、「公国」の名は、その後も1906年まで州の公式名称であったというのだから、今の私達が「リンブルグ公国」はどこか懐かしい響きの名前と思うのも無理はないのかもしれない。

100年前までこの公国は名前としては残っていたということなのだから、それほど大昔という話ではないということだ。

リンブルグ公爵家の血筋は1280年には途絶え、実際には色々な公爵や司教区、また色々な国に支配されていたため、その実態は簡単には説明できないのだろうし、また非常に複雑でわかりにくいものの、近郊の権力者達が手に入れたい魅力ある国だったということは間違いない。

リンブルフ公国は、ヒースや荒れ地の森林地帯(南東部のヘルトゲンヴァルト)の大部分から成っていたが、14世紀に繊維産業が、陶器は15世紀から栄え、公国をはるかに超えて認知されていた。

また同じ頃15世紀には、豊富な鉱物資源(鉄鉱石、鉛、ガルメイ)の普及が始まった。鉛とガルメイの特に豊富な鉱床は、前政権の終結後、プロイセンとオランダの両方から非常に求められ、前回の「中立モレスネット」の成り立ちとなる、非常に魅力的な場所でもあった。

またこの地域は美しい景観の街が多い。気候は北方地方と違って昔でも多少は温暖であり、冬もそれほど厳しくはなかったことだろうし、もともとロ-マ時代のベルギカの道(ローマからケルン方向に来て、現在のベルギー、オランダ辺りを抜けてイギリス・大西洋方向へ抜ける道)にもかぶっている辺りなので、ヨ-ロッパ人には馴染みの深い愛着を感じる地域のひとつだったのかもしれない。


limbourg.jpg
(こちらはどの公国や司教区にどの年代に属していたかが書かれています)

以上、ということで今回はリンブルグ公国についてあれこれ書かせてもらいました!

ドイツ虐殺の史実

今朝ドレスデンに引越しした親友のカティと電話で
話していたときのこと。

ドレスデンには250年前に日本から輸送された椿の花が
あるという話を聞いていたんですが、そこから少し歴史の話になり
第2次世界大戦でドレスデンでアメリカ、イギリス軍からの大虐殺が
あったという話になりました。
戦争直後にベルリンがロシア人たちに占拠され、
残されていたドイツ人の女性達が最悪の悲劇を味わったということは
知っていたのですが、ドレスデンでも市民が大虐殺されていたとは
事実は全く知りませんでした。

うちの町も実は当時97パ-セントが空爆で破壊され、ケルン市内も
大聖堂は奇跡的に完全に崩壊しなかったものの、空爆と市街戦により9割の
建物が破壊された上、またバルト海に面する北ドイツの代表都市
リューベックも空襲虐殺の惨事に襲われました。

ドイツのリューベックには軍事目標がないにもかかわらず、それを知ったうえで、
イギリス軍はただ「ドイツ人の戦意を失わせる」という目的で、
無防備の歴史的文化都市を攻撃し、大量の市民を虐殺したのだそうです。

そしてまたベネディクト会修道会発生の地であるイタリアのモンテカッシノの修道院もまた
イギリス空軍に空爆され、修道士と避難民数百人が虐殺されたそうで、
そう考えると、戦時中はどこの国も結構ひどいことをしていたことがわかります。

といってもちろんナチの大量虐殺も日本の満州植民地化も決して
許されることではありませんが、それでもイギリス人やアメリカ人の
自分達は正当である、という自信は一体どこからきているのでしょう。


先日お坊様の動画をのせたところ、日本人のお友達から

「一神教を信じている国は、自国がいつもスタンダードで正しい、他宗教の国は邪道、
理解しようとすら思っていない傾向があるのでは」

というコメントをいただいたのですが、本当にこれこそ欧米人の傲慢さの
理由を言い当てている言葉と非常に感心してしまいました。

「だから衣食住もかたくなに自分たちの伝統を守り続けるのではないでしょうか」

と後に続いた彼女の言葉でしたが、本当にその通りです。
ドイツにしても食事の貧しさは、太鼓判を押せるほどですし…悲しいことに…。

イスラム国の問題もあるだけに、ちょっとちょっとお兄さん、一神教が
そんなに偉いんですかい? と、
尋ねたくなる世界情勢なので、尚更日本の寛容さが際立っているここ最近ですが
アメリカ人もフランス人もイギリス人もついでにドイツ人もいつまでも自分達が
一番正しいと言い張る姿勢は少し控えてほしいものだと思うのは私だけでしょうか。

大国で素晴らしい国だけに、いつまでも「井の中の蛙」でいてほしくないですね。。。

カ-ル6世とカ-ル7世

ここ最近私の趣味嗜好で、なんだか偏った歴史の話になり、
いいかげん、あきられた方もいらっしゃることでしょう。
なので今回のテーマを最後に一度、プチ歴史ブログは
お休みしたいと思うのですが、最後はやはりこのテーマを選んでみました。

結局、神聖ロ-マ帝国皇帝で 偉大なるシャルルマ-ニュの
゛カ-ル゛という名の皇帝は、何人いたのでしょうか。


西ロ-マ皇帝(フランク・ロ-マ皇帝)  

カロリング朝
初代 カール大帝(ローマ・フランク王768年  皇帝戴冠 800年)
http://chipi616.blog.fc2.com/blog-entry-254.html

カ-ル2世禿頭王-西フランク王国の初代国王
(西フランク王843年  皇帝在位 875年)
http://chipi616.blog.fc2.com/blog-entry-257.html

カ-ル3世肥満王-フランク王国最後の統一、フランク・ローマ皇帝
(イタリア王879年 ロタリンギア王882年  
東フランク王882年  西フランク884年   皇帝在位 881年)
http://chipi616.blog.fc2.com/blog-entry-260.html
http://chipi616.blog.fc2.com/blog-entry-258.html


神聖ロ-マ帝国皇帝

ルクセンブルグ家 カ-ル4世(国王選出1346年  皇帝戴冠 1355年)
http://chipi616.blog.fc2.com/blog-entry-256.html

ハプスブルグ家  カ-ル5世(国王選出1519年  皇帝戴冠 1530年)
教皇による戴冠を受けた最後の皇帝
http://chipi616.blog.fc2.com/blog-entry-253.html


1806年に最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世
(オーストリア皇帝フランツ1世)が、神聖ローマ帝国の
解体を宣言、帝位を自ら放棄し、ここで844年の歴史を誇った
神聖ローマ帝国はついに名実ともに消滅・滅亡しますが
その1806年までは2人のカール皇帝が存在しました。


ハプスブルグ家 カ-ル6世
(国王選出1685年  皇帝戴冠 1711年)

ヴィッテルスバッハ朝(バイエルン朝) カール7世
(国王選出1742年  皇帝戴冠 1742年)


200px-Johann_Gottfried_Auerbach_002.jpg
カール6世は、カ-ル5世から10代目の神聖ロ-マ帝国皇帝で
フリ-ドリヒ3世からのハブスブルグ家最後の皇帝です。
この方は、かの有名なオ-ストリアのマリア・テレジアの実父でしたが
男児には恵まれず、4人の娘がいましたが、その中でも成人したのは
たった2人だけでした。

Charles_VII.jpg
一方カ-ル7世はヴィッテルバッハ家の神聖ロ-マ皇帝で
在位は1742年から1745年でした。3年というとても
短い在位だったのは、マリア・テレジアの大反撃があったからです。

彼女の父カール6世には男児がいなかったため、
マリア・テレジアの従兄弟の主人で(彼自身も
神聖ローマ皇帝だったフェルディナント2世の玄孫)
バイエルン選帝侯だった、カール・アルブレヒトが
この最後のカ-ル皇帝となったわけですが、
マリア・テレジアはカールの死後に皇帝位を奪還し、
1745年10月には夫フランツ・シュテファンを帝位に就けることに成功し
その後、2人の子供の代からはハプスブルク=ロートリンゲン家
(夫フランツの出身がロートリンゲン家-フランス国境沿い
の小国ロレーヌ公国出身)として、神聖ロ-マ帝国の後継者となりました。
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(ティ-ンエイジャ-の頃のマリア・テレジア女帝)


そしてこのカール皇帝たちはそれぞれ

カール1世 リェ-ジュ近郊生まれ

カール2世 フランクフルト・アム・マイン生まれ

カール3世 不明 でも現在のドイツのあたりかと思われます。

カール4世 プラハ生まれ

カール5世 ゲント生まれ

カール6世 ウィ-ン生まれ

カール7世 ブリュッセル生まれ


ということで、生まれた場所からも色々な想像が
できますよね。
なかでもフランク王国を統一したカール大帝、
日の沈まぬ国を統治したカ-ル5世がそれぞれ
現在なら車で1時間半程の距離の場所で生まれているということは
なんだかロマンを感じませんか?

ひとつの事柄から色々なことを感じさせてくれる歴史って
本当に面白いですよね。

ではしばし歴史の話題はお休みにします。
長い間おつきあいいだいてありがとうございました。


神聖ロ-マ帝国からドイツ帝国へ

西暦1000年頃の、神聖ロ-マ帝国の地図。
ザクセン朝(リウドルフィング朝)オット-3世のころです。
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12世紀の地図。 Holy Roman Empire と書いてある
肌色の部分です。少し大きくなりました。
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13世紀。フランスや神聖ロ-マ帝国に大きな変化は見られませんが
実際に「神聖ローマ帝国」という表現が史料上現れたのは、この頃です。
13世紀にはドイツ騎士団がバルト海沿岸を征服し、同じ頃、商人と手工業者
による中世都市がドイツ各地に築かれ、アーヘン、ケルンなど有力都市は
皇帝から特許状をもらい帝国都市となったのです。1
また北ドイツの有力都市は相互の利益と防衛のためハンザ同盟を結成し、
リューベックを盟主に最盛期には100を越える都市が参加したのもこの後です。
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14世紀。カ-ル4世が皇帝に即位した頃です。
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15世紀の頃。ついに後の名門ハプスブルグ家が皇帝に。
ジンギスカンが興したモンゴル帝国のなんと強大なこと。
それにポ-ランドも強国だったんですね。
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16世紀の頃。スペインのカール5世が神聖ローマ皇帝に。
1520年以降、有力諸侯ザクセン公フリードリヒにかくまわれた
マルティン・ルタ-がドイツ語訳での新約聖書発行に着手しはじめます。
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17世紀。ロシアが非常に大きくなってきました。
1618年から1648年には30年戦争が勃発。これはボヘミアにおける
プロテスタントの反乱をきっかけに勃発し、神聖ローマ帝国を舞台として
戦われた国際戦争で「最後の宗教戦争」、「最初の国際戦争」と異名があるそうです。
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18世紀。
三十年戦争が終わると、ドイツ地方各地には諸侯が分立し、
自由都市や小国が独立国としての権威を獲得したため、
神聖ロ-マ帝国はなんだか地域単位で細かくまとまりごちゃごちゃな
地図になってしまいました。
1871年、20数カ国の国の中で最も力をつけたプロイセンは
デンマーク、オーストリア、フランスとの戦争に勝ち、
宰相ビスマルクの下に、プロイセンを中心とした、ドイツ帝国を
成立させました。ちなみにプロイセン王国というのは、現在の
ベルリン周辺を領有していたブランデンブルク選帝侯が゛プロイセン王国゛と
名乗ったのがはじまりだそうです。
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19世紀。
1803年–1815年のナポレオン戦争は、ナポレオン率いる
フランスとその同盟国対、イギリス、オーストリア、
ロシア、プロイセンなどのヨーロッパ列強の対仏大同盟との戦いでした。
これによりドイツの西北(現在のノルトライン=ヴェストファーレン州の一部)は
ナポレオンの支配下に置かれました。
ナポレオン失脚後、ウィーン会議(1814-1815年)が開催され、
ウィーン体制と呼ばれるヨーロッパの国際秩序が形成されました。
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20世紀。
第一次世界大戦末期にドイツ革命が起こります。
1918年11月に水兵の反乱に端を発した大衆的蜂起と、その結果
カイザーが廃位され、ドイツ帝国が打倒された革命です。
ドイツでは議会制民主主義を旨とするワイマール共和国(ドイツ共和国)となります。
第一次世界大戦後、ルール地方は1923年1月から1930年6月まで
またもやフランスとベルギーの占領下になります。それから世界恐慌など
色々なことが起こり、1933年1月30日、国家社会主義ドイツ労働者党ヒトラーが
首相に就任し、ヒトラー内閣が成立したことにより、ワイマ-ル憲法はもはやなんの
意味もない無用の空文になりはてます。1945年にヒトラ-が死亡するまで
わずか12年で、ここまで広大になったドイツ第三帝国でした。
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しかしながら敗戦で第2次大戦後、東西に分割されたのはご存知の通りです。
2 krieg

そして21世紀。ほぼ現在です。
(この地図ではまだドイツは東西にわかれたままですが)
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長い長い1000年の歴史をかけ、やっと現在の地図に落ち着きました。
こうやって゛今゛(厳密に言えば少し過去ですが)の地図を見ると、
気分がほっとするのは私だけでしょうか。。。

フランク王国から神聖ロ-マ帝国へ

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(青がカール即位時のフランク王国、赤橙がカールの
獲得領、黄橙がカールの勢力範囲、濃赤はローマ教皇領)

こちらはカール時代のフランク王国(ピンク以外)で、フランク王国が
どのくらい大きい国だったかわかりますが、カールの孫の時代には
3つに分割されることになります。有名なヴェルダン条約です。

ルートヴィヒ敬虔王には息子が4人いました。でも次男のピピンは
シャルルとルートヴィヒ対ロタールとピピンという兄弟間での相続争いの途中、
838年に死去。ピピンの早世と、840年に敬虔王が薨去するに
至って、領土を巡る兄弟の対立は頂点を迎え一層激化します。

842年、ストラスブールの誓約、そして843年のヴェルダン 条約 において、
王国を3分割された話はもうご存知でしょう。

map843.jpg
(オレンジ:西フランク 薄緑:中部フランク  濃い緑:東フランク)

855年にロタ-ル1世が死去により、3人の息子息子ロドヴィコ2世(ルイ2世)、
ロタール2世、カールによってさらに分割され、869年にカールが、さらに869年に
ロタ-ル2世が早世するにあたり、ルートヴィヒ2世とシャルル2世禿頭王が中部フランク
王国を分割、それによりの結果、ルートヴィヒ2世はイタリアのみの領有が許され、
ロタリンギアは東フランクに、プロヴァンスは西フランクに組み込まれることとなります。

これがメルセン条約でこれによって、現在のイタリア、ドイツ、フランスの原型が
形成されました。870年のことでした。
hurankud.jpg

875年に皇帝ルートヴィヒ2世(彼は西ロ-マ皇帝でもありました)が
死去すると、またまた西フランク王シャルル2世禿頭王がイタリアに
侵攻して帝位に就きます。(禿頭王シャルルは欲張り王でもありました)
881年にそのシャルル2世が死去するとルートヴィヒ2世の
三男のカール3世肥満王(この方も肖像画のお姿は欲張りさんな感じです)が
西ローマ皇帝となり、その後、彼は遺領相続によって東フランク王と
西フランク王を兼ねてカロリング帝国の再統一されますが、無能さから
887年にカール3世は東フランク王を廃位されてしまい、翌888年に彼が
死去すると帝国は再び分裂、そして2度と再建されることはありませんでした。

911年にアルヌルフの後継者のルートヴィヒ4世幼童王が死去すると
東フランクのカロリング家は断絶し、こちらもこれまた解体しかけていた
東フランク王国ですが、ハインリヒ1世の業績によって再統一されます。

962年2月2日にローマにおいて教皇ヨハネス12世によりハインリヒ1世の
息子オットーがローマ皇帝に戴冠し、ここにカロリング家以外の西ローマ皇帝
ザクセン朝オットー大帝が誕生。
この戴冠が一般的には神聖ローマ帝国の始まりとされています。
しかしながら、当時は「神聖ローマ帝国」(Heiliges Römisches Reich)なる
名称は存在せず、オットー1世の戴冠によって新たな国家が誕生したわけでは
ないことを確認しなければいけません。
西フランクはフランス王国へ移行、中部フランクは分割され、一部はイタリアと
して独立、一部は神聖ロ-マ帝国領土へ組み込まれていきましたが、
「神聖ローマ帝国」とはあくまでもカロリング帝国からの継続した
ローマ教会の保護者、そして西洋世界の支配者たる「ローマ皇帝」で
あったわけで、最初は中部フランク王ロタ-ルが継いだ継承でしたが
この名称は結局は東フランク王国が、「神聖ローマ帝国」として
引き継ぐことになったわけですね。歴史は面白いです。

そんなわけで、次回は神聖ロ-マ帝国の地図を見ていきましょう。

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